2024.03No.157(オンラインNo.39)

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★退任教員挨拶

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もくじ

Chapter1私の研究と教育

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電気・電子情報工学系 教授
服部 敏明(はっとり としあき)

1989(平成元年)年10月に旭川工業高等専門学校から本学分析計測センターに赴任して、2024年3月まで34年半の間本学に在籍しました。その間、1999年7月から1年半だけ米国IUPUI大学のDubin教授下で博士研究員をして豊橋を一時留守にし、その後に物質工学系と電気・電子情報工学系に所属しました。

私の専門は水溶液中の化学種の分析化学です。研究では、大学時代の恩師の研究姿勢に学びライフワーク的な研究とカレント的な研究の2本立てを心がけました。博士学位取得後に高専教員時代から始めたコロイド滴定はライフワーク的な研究になりました。本学に赴任してから物質工学系では、電気化学を取り入れて、イオンセンサ、電極活性両親媒性イオンを用いたボルタンメトリー、キャピラリー電気泳動、イオンイメージセンサなどを研究に加えました。電気・電子情報工学系に移ってからは、さらにイオン放出デバイス(ケミカルシャワー)を追加しました。ほとんどの研究は個人商店的なものでしたが、その中で柳田先生のプロジェクトや澤田先生のプロジェクトに参画して、他分野の先生、研究者の方、企業の方との交流を持つことができたことは、刺激的で楽しい思い出となりました。

教育では、1年次や3年次の担任、50名の博士課程前期の大学院生と68名の学部卒業生の研究指導をさせていただきました。指導については確固たる理念・信念があるわけではなく、年齢を重ねて年ごとにやり方を徐々に変えて、試行錯誤で行ってきました。私の指導にうまくはまった学生さんと、うまくはまらなかった学生さんがいたと思います。一期一会で対応をしたつもりですが、うまくいかなかった学生さんはごめんなさい。学生さんとの個人面談では、「人間社会は猿の社会の毛繕い」(補足:社会は基本的に人と人とのコミュニケーションと日本人的な思いやりで成り立っている。苦手な相手やうまくいかない相手ほど、"明るい挨拶"をかかさないでください。)などと言い続けてきました。いまさらですが、まじめな学生さんたちに囲まれていたから、なんとか続けられたと感謝しています。

最後に、大学に大した貢献もできずに定年を迎えることになってしまったことに残念な思いがあります。一方で、長年にわたり研究と教育にご援助いただいた本学の教職員の皆様に深く感謝申し上げます。また、助成金やサンプルの提供などをいただいた企業の方にも感謝申し上げます。本学の教職員及び現・卒業・修了学生の皆様の今後のご活躍を心から祈っています。

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Dubin教授宅で家族と同僚でのハロウィーン
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澤田教授プロジェクト研究のみなさま
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      元気のいい学生さんたちとの研究室コンパ

休日のキッチンパパ 




Chapter2技科大の19年半

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情報・知能工学系 教授
藤戸 敏弘(ふじと としひろ)

私が広島大学、名古屋大学を経て本学に着任したのは2004年9月、今から19年半前になります。

研究会で一度訪れたことはあるものの、初めて経験する単科大学、技科大のことを、その成り立ちも含めよく知らず、着任前の6月平日昼間に訪れた際、学内にあまり学生を見かけないのが不思議で、「今、学期中ですよね?」と中川先生に尋ねたところ、「今授業中だからじゃない?」と言われ驚いたことをよく覚えています。

この機に本学で過ごした19年半を改めて振り返ってみます。

まず研究室、初めて自分で主宰する研究室でしたが、多くの先生方や学生達に支えられてようやく幕を閉じられることに安堵しております。前任の永持先生時から引き続き残ってくれた石井利昌先生(現北海道大学教授)、自身初の公募採用で来てもらった岡本吉央先生(現電気通信大学教授)から始まり、藤原洋志先生(現信州大学准教授)、木村慧先生(現九州大学准教授)、そして和佐州洋先生(現法政大学准教授)と、現在我が国の理論計算機科学分野を牽引する錚々たる先生方には、それぞれの個性を発揮しながら、学生や私を優しく丁寧に指導・手助けしてくださいました。今日の離散最適化研究室の在り様は、これらの先生方により形作られたものに他ありません。

教育については、たまたま目にした、元グーグル、スタンフォード大教授のセバスチアン・スラン氏による、Udacity というMOOC 立ち上げの記事に刺激を受けたことを思い出します。世界的名門大学から良質の教材が大量に無料で提供され、インターネットと英語さえ使えれば、世界中の誰もがどこからでも利用できるという教育のあり方には大いに考えさせられるものがあり、本学の特色である「らせん型教育」にも関わらず、むしろ高専の専門カリキュラムとの差別化を図るよう講義内容を刷新しました。一部(?)受講生には負担が大きく不評だったかもしれませんが、情報系のような変化の激しい分野では致し方ないのではと考えています。

研究については、最初から最後まで、自分の好きな、いわゆる理論計算機科学を専門分野とさせていただきました。実学重視の本学において、またアプリケーション指向の高まる世の潮流の中にあって、一行もプログラムを書かず、計算機実験も行わず、ひたすら考え続ける、そのような理論研究を許容してくださった本学(の懐の深さ)に、(中には嫌々ながら?)付き合ってくれた研究室学生に感謝します。

また、あまり貢献はできませんでしたが、大学の管理運営にもある程度携わらせてもらえたのは、本学が大規模総合大学ではない、そのおかげではなかったかと思います。様々な局面で多くの方々、特に情報・知能工学系(および旧情報工学系)事務、教務課、入試課の方々には大いに助けていただきました。

最後となりますが、ここに挙げた方々だけでなく、本当に多くの本学関係者に支えられ、そのおかげで何とか無事定年を迎えられます。改めて厚く御礼申し上げます。

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Chapter3定年退職にあたって

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建築・都市システム学系 教授
三浦 均也(みうら きんや)

昨年末に人間ドックの結果を通知されてから、年末年始を跨いで悶々としていました。本日午前に市民病院で精密検査の結果を聞かされ、深刻さは低いのですが2、3の経過観察事項について年2回の定期検査を義務付けられました。中学校卒業以来離れて暮らす両親を看ることに支障なさそうで、ようやくこの拙文を手掛ける気になりました。ここ数年は体力や健康の衰えを感じる場面も多くなり、その一方では、生来の物怖じしない性格に磨きがかかり、人前でずけずけと率直な意見を言うことが増えてきたことも気になっていました。1か月後に迎える定年退職は、私にとってはよい潮時と考えています。

本学に赴任したのは2001年10月、アメリカで起こった同時多発テロ(9.11事件)の直後頃から 23年半過ごしてきました。10年ほど前には、精神的に落ち込んで活動できなくなり、学内の方や企業の方、家族にもとても迷惑を掛けましたが、多くの励ましや協力をいただいたお陰で何とか任期を全うできるのはありがたいことです。生まれ育った北海道と異なり豊橋は気候が穏やかで、自然災害の影響を直接には受けず過ごしてきました。実家の土建業は雪と氷のために11月から半年間雪かき以外の仕事が無くなることに対し、冬でも活発な生活は羨ましいものでした。

海外の大学で3年間働いた経験がありましたが、本学で過ごしたことは格別でした。前任の北海道大学では、大きな組織と長い歴史ゆえに大様に過ごしましたが、新しい国立大学の本学では世の中の動きや国の施策に敏感で俊敏なことに驚きました。事務局や系の学生に対するサービスが当時からとても優れているという印象も持ちました。大学の民営化を境に国の意向に翻弄されることもありますが、枠組みやルールに縛られることも少なく、自由に過ごすことができました。

校風とともに、私にとって幸せだったのは、名実ともに建築と土木が一体となった建築・都市システム学系で過ごしたことです。土木出身の私にとっては、建築出身の先生と一緒に過ごすことがとても新鮮で、デザイン性に富んだ名刺やプレゼン、自由で発想力豊かな研究スタイルを目にするたびに触発されてきました。ともに衣食住の「住」を担う建築と土木ですが、入学式と卒業式だけが一緒で、それ以外では一線を画すのが国内の標準です。業界花形のゼネコンでも建築部門と土木部門では採用や入社後のキャリアが別れています。本系では学生や教員は専門性に濃淡はありますが、同一のカリキュラムと時間割で運営するという実験的な離れ業を建学以来こなしています。社会との接続をうまく構築するのが本系の課題です。これまでに一度きりの多数決を行い、JABEEでは建築と土木の2つのプログラムを同時に申請して運営しています。建築士や測量士といった分野特有の資格に対応する教育体制を維持することも負担ですが、この特徴を逆手にとって教員や学生には伸び伸びと活動して欲しいと思います。また、想定されている南海トラフ地震では本系の実力が試されますので、鍛錬を欠かさずに備えを万全にして欲しいと思います。。

最後になりますが、改めて皆様に感謝申し上げます。ご活躍をお祈りいたします。

Chapter4疾風怒涛の29年間を振り返って

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次世代半導体・センサ科学研究所 教授
田中 三郎(たなか さぶろう)

私が本学エコロジー工学系に助教授として着任したのは1995年の3月、阪神淡路大震災直後のことだった。それは、本学大学院を修了して住友電工伊丹製作所に勤めて13年目の春のことである。

震災直後の行き交う救急車のサイレン、空を頻繁に飛行するヘリコプターの騒音、いまでもそれを鮮明に覚えている。震災は幸い早朝ということもあり、社内での怪我人は少なかった。製作所内に復旧対策室が立ち上げられ、社員がそれぞれ分担して職場の後片付けを行った。事務所内が完全に潰された。直下型地震では書架の固定アンカーは全く役に立たないことを思い知らされた。停電、断水のため、暖房は無い。工場の社食は閉鎖でお昼は握り飯、陽が暮れる頃には帰宅という生活が続く中、後ろ髪を引かれる思いで職場を後にして大学へ赴任した。住友電工は最初に働き方の基本を教えてくれた場所であり、学生を指導する上での拠り所になっており、大変感謝している。

大学に赴任して来ると、当然のことであるが新しく創設された系であるため、ゼロからの立ち上げとなった。建屋は設計段階であり、研究室のレイアウト設計や、什器選定など未着任の教員分も任された。現G棟教員居室のカーペット敷き、3段引き出し付き書棚は当時の先進的な企業で導入されていたもの。床をカーペット敷きにすることでOA機器の騒音が吸収されて静寂な環境が得られる。書棚は保存期限に基づいたファイリングシステムの導入が可能だ。実験室では、ねじ回しなど工具一つから購入する必要があった。いろいろとサポートしてくださったのが電気電子工学系の水野彰 教授で、電気・電子系学部4年生の稲富謙一君を卒研学生として配属してもらい、彼とは黎明期の大変な時期を共に過ごした。私は高温超伝導薄膜を用いたSQUID磁気センサが専門であるが、薄膜作製に必要な様々な設備を赴任したばかりの私には用意できず、計測器の充実から始めた。稲富君は手先の器用な学生で、V-I(電圧、電流)特性やV-φ(電圧、磁束)特性評価装置を作ってもらった。現在使用されている評価装置は何度かの世代交代はあったが基本設計当時のものと同じで、誰が名付けたのか研究室内では初代製作者の名前に因んで「イナドミ回路」と呼ばれている(恐らく稲富君本人は知らない)。

1996年3月からは米国カリフォルニア州、バークレー校物理学科のJohn Clarke研究室に1年間、客員研究者として留学した。そこでは様々な人との出会いがあり、米国の文化、習慣、研究室の運営等を知ることができ、大変貴重な経験であった。

帰国後の1998年頃からは阪大の故小林猛教授に科研費特定領域研究(A)(代表 東大 岡部洋一教授)の計画班に入れていただいた。この時期に予算を確保できたのは大変ありがたいことで、研究室が黎明期を抜けて成熟期に入るきっかけをもらった。このころマスクアライナ(露光機)や、アルゴンイオンミリング電源など各々数百万円規模の主要機器を充実させることができた。超伝導薄膜作製用スパッタリング装置や銀蒸着装置などは、パーツを集めて、学生たちと作りあげた。このころの学生への指導目標を、「20年以上使えるもの」として設定、しっかりとしたものを作りあげることができた。それらは、20年以上経った今も現役で動作している。当時の学生たち、滝井直樹君、松田年加君、太田肇君、工藤正善君らに感謝したい。

2002年の教授になるころには科研費の基盤(B)が継続して採択されるようになり年間の研究資金も20百万~30百万円で安定した。大学では研究資金獲得がなければ何もできない。これが大学と会社との大きな違いといえる。また、同時期は助手の採用で研究の幅が広がった。廿日出好助手には仕事を手伝ってもらうと同時に独り立ちできるよう指導した。ちょっと厳しすぎたかもしれないが、今は近畿大学の教授として立派に活躍している。

振り返ってみると、外部資金は2012年が70百万円越でピークであった。当時、私は54歳で「知の拠点あいち」のプロジェクトリーダーとなり、研究室は私と准教授、研究員2名、秘書2名の計6名のスタッフ、学生数は15名であった。写真はこの年4月のメンバーの写真と夏に実施した研究室旅行(コロナの時期を除いて毎年挙行)で「つぐ高原」に行った時のものだ。このころが全盛期といえよう。「知の拠点あいち」プロジェクトの目標は社会実装であり、企業との共同研究とリンクしているため仕事量が多く、さらに学長補佐の仕事もあり、研究資金も多かったが多忙を極めた。この時期、佐野清美秘書には短納期のかなり無茶なお願いもきいてもらって大変お世話になった。坂上千恵子秘書や河合奈穂子秘書にもずいぶんお世話になった。当時は働き方改革や労働環境改善などの言葉はなく、私も正月以外はほとんど休みなしであったと記憶している。あまり家庭を顧みない父親であったことは反省すべきことだ。しかし、深夜帰りが多かった企業時代に慣らされていた妻は、あまり不平も言わず2人の子供たちを立派に育て上げた。感謝している。

2015年に「知の拠点あいち」プロジェクトが終了してから65歳定年までのおよそ10年間は廿日出好准教授が近畿大学へ異動、有吉誠一郎准教授が着任、秘書さんの交代、学科再編、所属が研究所へ変更など様々な環境の変化があった。その時期、九州大学の圓福敬二教授が代表のJST Sイノベ事業に参加させてもらい、磁性ナノ粒子の応用研究を開始した。阪大の糸﨑秀夫教授からパルスレーザ成膜装置を譲り受けて、田中研究室に移転・導入したもこのころであった。また、予算が付いたことと、ターボ分子ポンプの価格が低下したことで、多くの真空装置に使用されていた油拡散ポンプを順次、ターボ式へ変更した。これによって冷却が終了するまでの2-3時間の待機から学生は解放された。2018年に副学長(研究力強化担当、RACセンター長 兼務)に任命され、大学運営業務の比重が増し多忙を極め、随分と大田千晶秘書や大谷剛義研究員に助けてもらった。

2020年に始まった寺嶋一彦学長体制では私は副学長継続となり、新しく故山本進一理事が着任された。同時に新型コロナが蔓延して大学への入構制限が開始された。学生が入構できる明確な基準がない中、学生に研究を進めてほしい多くの教員から、学部学生や修士学生の入構許可申請書が五月雨式に大量に提出された。それらを仕分けるだけで大変であった。担当した山本理事と私は、最初は手探りであったが学生が入構できる基準を「博士後期課程大学院生のみ許可」と決めて以降は、かなり仕分けが楽になった。事務局の皆様にも大変お世話になった。山本理事は産学連携の造詣が深く、新型コロナも出口が見えてきたため、いろいろとご教示いただこうと思っていたところ、ご病気で亡くなられたのは極めて残念なことであった。眼光鋭くニヤッとした優しい顔が忘れられない。

2023年3月には林幹二君が研究室で初めての博士学位を取得することができた。私は企業に就職するなら修士の学位で十分との思いがあり、学生に博士進学をあまり進めていなかったので博士学位取得者数は他の研究室よりも少ない。しかし、修士学生には経験を積ませて、企業で十分やっていける人材を輩出できたと自負している。研究テーマによっては期待した成果がなかなか出ないこともあったが、失敗断念したことはなく、引き継いだ学生が最終的に成果に結びつけている。

ここまで、研究活動を中心に29年間を振り返ってきたが、忘れてはならないことが1つある。産学連携に関することだ。国立大学法人化1年間前の2003年に大学知的財産本部整備事業の公募があり、古川泰男教授(現、古川学園理事長)と私が中心となり応募、面接を経て採択された。これを受けて同年に知的財産・産学官連携本部を設立し、コーディネータを雇用して体制作りをスタートさせた。そこから現在までのおよそ20年間に渡り本学の産連活動に関与してきた。その間に「ラボノート」の導入、「間接経費」の30%化など、様々な制度改革を行ってきた。賛否両論あることも承知しているが、2021年度に本学が「民間企業との共同研究に伴う研究者1人当たりの研究費受入額」で全国1位になったことは大変喜ばしいことであった。

私の研究室を卒業、修了した学生は100名を越え、それぞれ思い出深い学生ばかりだ。初期の卒業生は50歳を超えている頃だ。是非、田中研究室の教育方針の成否を問いたい。来年度以降、立場が少し変わって数年間、本学に残ることになるが学生教育はここまでとなる。

楽しくも、苦しくも共に研究を進めて研究室を支えたOB、OG学生諸君、大谷 研究員、OB研究員、大田千晶秘書、OG秘書さん達、大学関係者、もっと言うなら、これまでに出会ったすべての人々に感謝したい。とにかく忙しく走り続けた29年間であった。これからは少し余裕を持って過ごしたい。できないかもしれないが......

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2012年4月 G棟玄関前での研究室メンバー
(研究室人数がピークの年)
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2012年8月 研究室旅行 つぐ高原

Chapter5多くの人に支えられて

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教育研究基盤センター 教授・副学長
中野 裕美(なかの ひろみ)

女性研究者・技術者の少ない工学分野で、無事定年退職の日を迎えることができました。支えてくださった多くの方に、この場をお借りし、深く感謝します。

1979年に、本学の2期生として、物質工学課程3年次に編入学しました。当時は3年生から研究室への配属があり、亀頭直樹先生(当時准教授)の研究室でセラミックス材料を学び、後に博士(論文)の学位取得の際にもお世話になりました。4年から修士の3年間は、故浅田栄一先生のところで分析学や技術を学びました。修士課程を修了後、浅田先生の勧めで(株)村田製作所に入社しました。入社時(83年)は、社内で総合職女子は私一人で、'男女雇用機会均等法(85年制定)'前の男性優位の風土の中、業務ではいろいろな困難がありました。一方で、アフターファイブは楽しく、テニスやゴルフで人脈を増やし、仲良くなった友人たちは管理職になり、その後の学会や研究活動等で力になってくれました。89年に、龍谷大学が理工学部を創設し、電子顕微鏡室を新設するということで、転職をしたのが30歳の時です。400 kVと200 kVの透過型電子顕微鏡(写真1)、走査型電子顕微鏡、周辺装置などの導入をし、故浦部和順教授のもとで、解析理論、英語論文を書くコツ、セラミックス材料の応用理論等を学びながら、多くの共同研究者にも恵まれました。電子顕微鏡を用いた長年の研究成果は、2010年にセラミックス協会学術賞を受賞し、研究者として大きな励みになりました。

本学には、2009年に教育研究基盤センターの教員公募に応募し、6月に准教授として着任しました。翌年からは、5系(現4系)の授業(兼務)もさせていただきました。兼務教員の研究室への学生配属は、'希望者がいれば1名の学生を配属する'という系独自のルールがあり、研究室の学生数は少なかったのですが、産官学との共同研究を積極的に展開し、多くの材料研究に関わることができました。それらの研究成果とセラミックス協会での男女共同参画活動等が認められ、20年にセラミックス協会フェロー賞をいただきました。男女共同参画活動は、本学でも大西隆学長のもとで開始し、22年4月には、文科省概算予算を5年間取得し、寺嶋一彦学長のもとでダイバーシティ推進センターを設置しました。22年7月にはくるみん認定、23年11月にはPRIDE指標シルバー認定、24年1月には豊橋市子育て応援企業認定を取得し、多くの方のご協力により男女共同参画の地盤を構築できました。また、ダイバーシティ活動支援学生達と定期的にミーティングをし、学生にも活動の輪が徐々に広がっています(写真2)。さらに、セラミックス協会以外では、現在も粉体工学会、学術会議の材料工学委員会で活動を展開しており、工学分野に女性研究者が増えていくことを願っています。

人は、様々な場面でキーマンとなる方々に出会います。いつも感謝の気持ちで、誠実に良い人脈を作ることにより、自分の人生もより楽しく豊かになると思います。残りの人生も、新たな人との出会いにわくわくしながら、母校がますます発展することを心から祈念しています。

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【写真1】透過型電子顕微鏡(200 kV)
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【写真2】ダイバーシティ活動支援学生の定期ミーティング

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