2023.03No.155(オンラインNo.37)

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★退任教員挨拶

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もくじ

Chapter1豊橋技科大での45年を振り返って

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機械工学系 教授
柳田 秀記(やなだ ひでき)

私は本学の1期生としてエネルギー工学課程3年次に編入学し、修士課程修了までの4年間を学生として過ごし、その後本学に教務職員として採用されました。教員生活は41年間ですので計45年本学で過ごしたことになります。途中1年間交流人事で豊田高専に籍を移しました(私のときは転籍出向)ので、厳密には本学の在職期間は40年間ですが、出向中も学生の研究指導に毎週本学に来ておりました。

学生時代の指導教員は本間寛臣先生(当時は助教授、材料強度学)でしたが、油圧工学がご専門の市川常男先生(教授)・日比昭先生(助教授)の研究室で助手を探しているとのことでお声をかけていただき、本学に奉職することとなりました。

助教授になる少し前頃からフルードパワー工学(古典的な名称は油空圧工学)の範囲で研究テーマを新たに立ち上げて行きましたが、なかなか思うように進展せず、学生さんには不安な思いをさせたことと思います。しかし、学生さんたちの努力と忍耐により進展は遅いものの少しずつ前進することができました。私の研究者としての基礎を作って頂いた市川先生・日比先生・本間先生、そして、その時々の研究を支えてくれた研究室の卒業生・学生の皆さんには本当に感謝しています。

2012年に教授にしていただき、11年経過して今日を迎えることとなりました。この間、2015年に西川原理仁先生を助教として、その2年後に横山博史先生を准教授として研究室に迎え入れました。優秀な若手の先生の加入により、研究室の研究領域は広がり、活性度も大いに高まりました。良い人材を迎えることができて幸運でした。

課外活動団体の「自動車研究部」に創部当初から関わってきました。私が担任をしていたクラスの学生さんたちが発起したことによります。当時、自動車技術会の理事を務めておられた本間先生から学生フォーミュラ大会に参戦する活動をしてはどうかとご提案いただき、具体的な活動が始まりました。近隣の企業さんにスポンサーになっていただくために部員と一緒に何社も回り、また、部員の深夜に及ぶ連日の設計・製作活動の努力が結実し(部員所属の研究室の先生には大変ご迷惑をおかけしたようですが)、2006年の第4回大会に初参戦することができました。2008年の第6回大会では日本初となるカーボンモノコックボディーの車両を作り上げて参戦するなど、部員たちの挑戦・不屈の姿勢を見てきました。この活動に関わることで本学の学生さんのポテンシャルの高さを実感することができ、誇らしく思いました。

関わりのあった皆様方のお陰で充実した大学生活を送ることができ、そして無事に定年を迎えることができました。深く感謝申し上げます。皆様のご健勝と豊橋技術科学大学の益々のご発展を祈念いたします。

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2006年学生フォーミュラ大会初参戦
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研究室旅行(2017年9月)

Chapter2電線と超音波の深い関係

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電気・電子情報工学系 教授
穂積 直裕(ほづみ なおひろ)

修士の学位をもらってから電力中央研究所に就職し、8年ほどかかって博士論文を書いて学位をいただきました。研究所はたぶん普通の企業と違って多少大学に似た雰囲気もあったものと思われます。そのあと長尾雅行先生の研究室に呼んでいただき、1999年に本学に来ました。こちらの大学は実学重視の雰囲気があるようで、私には居心地のいい処でした。

小さい頃から電子回路を組み立てるのが好きでして、研究所や大学でも実験装置や制御解析プログラムを自作しました。真似をして装置をつくりだす学生さんもたくさん居まして、それを見た企業の方から、あんたの処の学生さんを採用したいと云われたときは嬉しかったです。実験装置を組むのは時間と根気が必要で、夢中になっている間に卒業修了が迫ってくるので、研究の質が多少低下するのはやむを得ないことと思います。しかし大抵の学生さんは就職してから何に関わるか判らないので、研究テーマの周りにある技術を実体験できる装置づくりは必ず生かされると思っていました。ついでに授業のときも、へんてこりんな仕掛けを持ち込んで実演していましたが、多少一人よがりだったかも知れません。

前職の研究所では、超高圧送電用の絶縁物の性能評価とか、電力設備の絶縁診断のような仕事をしていました。この関係の研究は大学でも続けました。日本は電力系統が孤立している数少ない先進国でして、他の国はだいたい国際連系をして電力を融通しています。これは安定供給とか、負荷の平準化とかのいい点がありますが、島国の日本でやろうとすると、海底ケーブルが必要となります。ここには直流がかかるので、絶縁物の中が帯電して壊れることがあります。この帯電を測定するために超音波を使います。私たちは、本物の超高圧ケーブルでこの測定ができる、世界で数少ない(たぶん世界最高の)技術をもっています。測定法の国際標準をつくる話が進んでまして、私たちの技術がその真ん中に座ることになります。

超音波を使う計測をやっていましたところ、地元の会社の方から医学生物学用の超音波顕微鏡を作ろうという話が出てきまして、集束パルス超音波をあてて、その頃から広まったデジタル信号処理による周波数解析を使う方法を提案し、先達の先生から教えてもらいながら頑張っていいのを作りました。この関係の研究も随分楽しませてもらいまして、今では細胞の中の弾性分布が三次元で観察できる、たぶん世界唯一の技術をもっています。

大学では教職員の皆様や学生さん、共同研究先の皆様と随分楽しく仕事をさせていただきました。国際協力に関わる仕事を通じて、各国の先生、学生さんや国際協力機構の皆様と交流し、視野を拡げることもできました。途中5年間は愛知工業大学に通いました。ここもいい処でして、当時の学生さんの活躍を耳にしますと、とっても嬉しいです。皆様には本当に感謝しております。退職後はいくつかのプロジェクトに関わって、アルバイトみたいなことをして過ごす予定です。ついでに自宅に「穂積計測研究所」を作って、代表におさまる計画です。Hozumi Measurement Labの頭をとるとHoMeLabになって、実態に合うものと思います。いい名前でしょう?

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超高圧電線のつなぎ目にできる異種絶縁界面にたまる電荷を超音波で測定する実験。これはかなり説明が必要ですが、結構画期的な結果でした。
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培養フィルムの上にある細胞の断面の弾性分布を超音波で測定する実験。こちらは比較的判りやすいかと思います。
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豊橋で国際会議をやったときに還暦のお祝いをしてくれました。いい研究仲間に恵まれたものです。
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退職記念に夫婦で撮ったものです。あんまり口には出しませんが感謝しています。

Chapter3企業で19年半、技科大で19年半

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情報・知能工学系 教授
青野 雅樹(あおの まさき)

2003年11月1日、それまで勤務していた日本アイ・ビー・エム(株)を10月末で退職し、国立大学豊橋技術科学大学に着任しました。法人化が起こる5か月前のことです。自分にとっては、この転職は大きな決断であり、今振り返ると、「どえらい」ことであり、同時に、とても「ラッキー」だったなあ、と感じています。

「どえらい」思い出としては、まず、カオス的な法人化前の全学教授会を経験できたことです。人事案件もドクター学位審査も1件ごと説明のあと投票という手続きだったので、何時に終わるともわからない状況でした。また、「科研」という未知語に対して、着任時、「あなたは企業にいたので科研を知らないでしょうから基盤研究(C)の申請書を書きなさい」という最初のミッションを、当時の学長や系の教授たちから着任時に言い渡されたことも「どえらい」思い出です。当時の申請期限は11月7日頃でした。

「ラッキー」な思い出としては、2004年4月の船出から、M1の3名を含む合計6名の学生が研究室に配属されたことです。通常、B4の配属は初年度からあるとしても、M1の配属は、ないはずでした。M1が加わってくれたことで、技科大サバイバル術的なこと(「夏休みには研究室単位でバーベキューに行きましょう」など)を研究室運営に取り入れることができました。写真はバーベキューや歓迎会での研究室のメンバーとの集合写真です【写真1、写真2】。また、2004年の中頃、当時すでに進行していた学内横断の21世紀COEプロジェクトで声をかけてもらい、安田先生、澤田先生、若原先生らと知り合うことができたことも「ラッキー」でした。

研究面では、データマイニングのほかにも、3Dモデルの形状類似検索技術という世界的にもユニークな研究分野を開拓し、学術論文、特許、国際コンテストでの成果を重ねるうちに、A-stepや総務省のSCOPEなどの外部資金を獲得できたほか、特許の一部を、共同研究をしていた企業の製品で実用化できたことも「ラッキー」でした。

研究室の学生集めに関しては、自分自身が海外留学していたこともあり、できるだけ多くの留学生の獲得を目指してきました。2012~2016年頃には、20名程度いた学生の3分の1くらいが留学生、残りが日本人という、多くの学生に恵まれた時代を経験できました。特に、最初の留学生が博士後期課程に進学し研究室初のドクターの学位を取得し、出身国のバングラデッシュに戻り、チッタゴン大学の准教授ポジション(現在は教授)につきました。そのきっかけもあり、自らもバグラデッシュに赴き、しばらくして豊橋技科科学大学とチッタゴン大学の間で協定校の締結を無事、結ぶことができました【写真3】。

今後しばらくは、豊橋ハートセンター共同研究講座で大学に特任教授として残ることになっているので、これからもしばらくは、大学周辺をうろうろしていると思います。引き続き、お世話になった豊橋技術科学大学に、何らかのお役に立てるよう、尽力してまいりたいと思います。【写真4】

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【写真1】研究室でのバーベキュー時の集合写真
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【写真2】研究室の学生の歓迎会
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【写真3】バングラデシュ・チッタゴン大学学長室にて
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【写真4】浜松フルーツパークにて学生が撮影

Chapter4技科大の史学担当教員として ―歴史雑感―

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総合教育院 准教授
相京 邦宏(あいきょう  くにひろ)

筆者が豊橋に赴任したのが今から29年前のことです。住み慣れた関東を離れ、燦燦と太陽の降り注ぐ自然豊かなこの地で多くの先輩教員に囲まれ、大学人としての人生をスタートさせました。それ以来、常に自分が一番の若輩者と思っていたのですが、馬齢を重ね、気が付けば今春定年を迎えることになりました。赴任した当初、1科目300人超の学生を相手に力戦奮闘したことも今となっては懐かしい気も致します。

本学で30年近く教鞭をとり、また自らも歴史を学ぶ中でつくづく感じるのは、科学技術の飛躍的な進歩に比べ、人間の本性は昔からほとんど変わってないのだということです。だからこそ、洋の東西を問わず「古典」から人は今でも多くのことを学べるのでしょう。

筆者の専門は西洋古代史ですが、古代ローマでも人気剣闘士には「追っかけ」がついていましたし、四頭立ての戦車競技には莫大な金銭を掛けて熱狂したものです。また、ポンペイの街には振られた女への「腹いせ」や選挙のポスター様のもの(投票依頼の落書き)なども残されています。イラストをご覧下さい。今よりもよほどエリート集団であった中世の大学の授業風景です。居眠りをしている学生もいれば、隣の人とのおしゃべりに夢中になっている学生もいます。自らの学生時代を振り返っても学生の気質などというものは現代とあまり変わりません。また、昨今流行したコロナ疫病への基本的な対策なども100年前のスペイン風邪の時からそれほど進歩してはいないのです(病人の隔離、手洗い、うがいの励行など)。

さて、人間の本質がほとんど変わっていないといえば、学生時代に聞いた次のようなエピソードがあります。古典の先生が、大学院の英語の入試問題に、ある大戦前夜の使節団の交渉の場面を出題したそうです(無論、固有名詞や年号は適当に処理した上で)。春に入学してきた学生に「君、あの問題、何を題材にしたものだか分る?」と聞いたところ、その学生は「第二次世界大戦前夜の日米使節団の交渉の場面ですか」と答えたそうです。ところが、その問題は紀元前5世紀末のペロポネーソス戦争(ギリシアの覇権を掛けたアテーナイとスパルタの争い)前夜の使節団の交渉を扱ったものでした。このように固有名詞と年号が無くなってしまえば、人間の行いは今も昔も基本的にはそれほど変わってはいないのです。

という次第で、前世紀、二度に渡る世界大戦の惨禍を経験し、人類が少しは賢明になり得たはずのこの21世紀に、あろうことか、大国の指導者が開けてしまったパンドラの箱、最後に残る希望(エルピス)を人類が見出すことができるのかどうか、この時代に歴史を学ぶものとしてこれからの成り行きを見守っていきたいと考えております。

最後に、'ars longa, vita brevis' 「技芸は長く、人生は短い」(元は古代ギリシアの医学者ヒッポクラテースの著書『箴言』の一節)。 過ぎてしまえば長いようで短かった29年、本当にお世話になりました。

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【図1】人気剣闘士に集まる女性ファン
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図1:出典
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【図2】中世大学の授業風景

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