退任教員挨拶
Chapter1在職17年を振り返り、感謝と期待を込めて
機械工学系 教授 足立忠晴

2009年4月に本学に赴任して以来、17年間大変お世話になりありがとうございました。教職員の皆様、卒業生・修了生を含めた学生の皆様に深く感謝申し上げます。特に、この6年間は、新型コロナウィルス感染症への授業対応、教育組織の再編を含む教務関係の業務に携わることになり、関係の教職員の皆様には多大なるご協力をいただき、重ねて御礼申し上げます。
赴任した2009年当時は、まだ旧課程・専攻で教育が行われており、3学期制の授業でした。卒業研究を12月下旬に終了させなければならないことに中々慣れず、研究室の学生とのんびり研究を行っていては、冬の訪れとともに毎年のように焦っておりました。着任当初、「学生同士の仲が良く、素直な学生が多い良い大学である」というのが本学の第一印象でした。在学生は旧課程・専攻に所属しており、課程等の所属学生数が少なかったこともあり、学生同士が全員知り合いという状況であったためかもわかりません。翌年から現在の組織に順次移行し、さらに近年のコロナ禍の影響もあってか、学生間の関係が以前より希薄になっていることを少々残念に感じております。
専門分野は材料および構造物の剛性、強度、破壊に関する材料力学であり、本学赴任後は機械工学系内の「機械システムコース」に所属したこともあり、設計を強く意識しておりました。研究室の学生とは、測定装置をできるだけ自分たちで設計・製作する方針にて研究を進めてきました。学生と共に作製した装置によって、それまで測定できなかった現象を捉えることが可能となり、多くの論文として公表することができました。また、その結果の一部が企業等で実装・活用されていることは成果のひとつかと思っております。
2023年度に終了したスーパーグローバル大学創成支援事業(SGU)において行われてきた教育については、様々なご意見があったかと思います。しかしこの数年、GAC学生を中心に積極的に活動する姿が見受けられるようになり、SGUの成果がようやく実を結び始めたのを実感しております。 現在、検討されている学部1課程、大学院1専攻へ移行する教育組織の再編については、当初は様々な問題が生じるかもしれませんし、実際に効果が表れるまで長い期間を要するかと思います。どうか長い目で学生の成長を期待していただければ幸いです。
本学において学生がのびのびと学修・活動し、本学がさらに発展することを祈念して、退任の挨拶とさせていただきます。
Chapter2豊橋技科大での22年を振り返って
機械工学系 教授 河村庄造

私は2004年(平成16年)4月に機械システム工学系に教授として着任しました。この年は「大学法人化元年」で、西永頌学長の3年目の年でした。名古屋大学入学までさかのぼると、それは1979年(昭和54年)4月で、「共通一次試験の元年」です。そして大学、大学院(前期・後期)を修了し、1988年(昭和63年)4月に神戸大学に助手として着任しました。この年も節目の年で翌年の昭和64年1月には元号が「平成」に変わりました。神戸大学在職中には阪神・淡路大震災が発生し、惨状を目の当たりにしました。その後本学へ異動し、22年間お世話になりました。
本学へ着任して初めて自分で研究室運営の責任を持つことになりました。そのため、学生時代の研究室、助手・助教授時代の研究室の運営を参考に、自分らしさを意識した研究室運営を心掛けました。着任後初めて研究室に配属された学部学生四名が、現在まで続く研究室の雰囲気を作ってくれたことに大変感謝しています。スポーツ行事では、開学記念駅伝大会には第31回大会(2008年)から第48回大会(2025年)まで研究室として(ほとんど複数チームで)連続参加しています(コロナ禍で参加チームが5チームの時もありました)。
私の研究分野「振動工学」は機械工学の中でも伝統的な分野ですが、実際の機械や構造物をイメージした研究になるので、技術科学を志向する本学の学生にとっては興味を持ちやすく、そのため学生と議論しながら研究を進め、多くの学術論文にまとめることができました。学生の皆さんに感謝です。また講義においても、実際の機械や構造物を意識した講義ができたのではないかと思っています。
着任当時は「機械システム工学系」と「生産システム工学系」がありましたが、2010年4月の再編によって一つの「機械工学系」になりました。機械工学系(1系)には4コースあり、私が所属する「機械・システムデザインコース」は旧1系と旧2系が完全に混在するコースとなりました。強く意識したわけではありませんが、機械工学系の再編は、このコースがうまく融合して活動できるかどうかが大きな意味を持つと思っていました。結果としてはうまくいっていると思います。現在では、再編時のことを知っている1系教員も減ってきており、大学全体のコース制への移行、カリキュラムの再編も計画されており、新しい段階に入ったと感じています。
着任以来、様々な委員会に関係し、微力ながら大学運営に携わってきました。各種委員会は、系、総合教育院などの委員で構成され全学的な課題を議論するのですが、その議論をスムーズに進めるためには、事務の方々の献身的な貢献が欠かせません。裏方として様々なサポートをしてくださった事務の方々には感謝しかありません。職員の方々と活動する機会も多かったので、今でもいろいろな方々との懇談会(飲み会)もありますし、シティマラソンを通じた付き合いもあります。それらも私の財産だと思っています。
本学での22年間は、好きなことをさせていただいた22年でした。教育、研究、研究室運営、系および大学運営に携わり、自分自身も成長させていただきました。関連したすべての学生、教職員の皆様に大変感謝いたします。そして皆様のご健勝と豊橋技術科学大学の益々のご発展を祈念いたします。
Chapter3DNAと私
応用化学・生命工学系 教授 浴俊彦

映画「ティファニーで朝食を」で流れるムーン・リバーという曲をご存知でしょうか。歌詞には、夜、河面に映る月を観ながら、独り将来に向かって夢を追う心情が綴られているようです。これまでの人生を思い起こすと、なぜかこの曲が脳裏に浮かんできます。山口県の田舎で育ち、上京後、将来の進路に迷っていた学生時代の自分の姿と重なるためかもしれません。ここでは、私が大学で研究の道に進んでから定年を迎えるまでのDNAを巡る研究の跡を振り返ってみたいと思います。
私とDNAの出会いは、東大薬学部・生理化学教室(山田正篤教授)に学部生で配属された1982年春まで遡ります。生物の遺伝情報をもつDNAは、細胞が増殖する際に二つのDNAに複製されます。大学時代は、増殖に異常を示すマウス細胞変異株を分離してDNA複製の仕組みを調べる研究を行っていました。石ころだらけの河原で宝石の原石を探し廻るような実験の日々が続き、将来への展望を失いかけていたとき、偶然、DNA複製で最も重要な役割を果たすDNAポリメラーゼ・アルファの変異株と出会いました。その後、この変異株を使った実験に没頭し、発見の驚きや論文を発表する楽しさを体験したことが、研究者を目指すきっかけとなりました。博士課程在籍中と修了後には、ニューヨークのスローン・ケタリング癌研究所のジェラード・ハーヴィッツ教授のもとで、ウイルスDNA複製の研究に取り組みました。海外の研究者と競争しながら、低温室に終日こもって微量なタンパク質を扱うハードワークの毎日でしたが、マンハッタンで過ごした2年間の経験は研究者を目指すうえで何にもかえがたい貴重な糧となりました。
1991年より理化学研究所(筑波)に研究員として就職し、ゲノム解析プロジェクトに参加することになりました。DNAの複製から、DNAの遺伝情報(塩基配列)の解読へとテーマも大きく変わりました。求められる知識、技術、材料、研究者もこれまでとはまったく違い、料理の世界にたとえるなら、フレンチのシェフが突然、和食の板前に転職するようなものでした。そのため、理研での11年間は苦労も多かったのですが、ヒトゲノム材料の整備・配布や構造解析、パン酵母の第6染色体の塩基配列解読などの研究業務をこなしながら、社会人として貴重な経験を積み、中間管理職に必要なスキルを身につけました。最後の2年間は和光本所(花岡研究室)に移り、ゲノム研究で学んだ「まとめて解析し、いち早く面白い遺伝子を発見する」ポリシーのもと、DNAと密接に関わるヘリカーゼというタンパク質グループに着目し、酵母や線虫の遺伝子から、新しい研究対象を発見することができました。
縁あって2002年春より、本学のエコロジー工学系に助教授として着任し、豊橋の地で独立した研究者・大学教員としての生活をスタートしました。本学では、教育者としてのキャリアを磨く傍ら、遺伝子の研究を行うことに決め、基礎研究のほか、線虫を使った生体有害性評価法や遺伝子組換え酵母によるDNA傷害性検出法の開発、DNAバーコード法(DNA塩基配列を生物識別に利用する分析法)による土壌生物の分析や農業応用など、具体的な応用が見えるテーマを立ち上げました。これまでの研究室メンバーの献身的な努力によって、各テーマで着実に成果を挙げることができました。この場をお借りして、研究にご参加頂いた研究室のメンバー、卒業生・修了生、共同研究者の皆様のご貢献に深く感謝と敬意を表したいと思います。
振り返ると私の44年の研究人生は、DNAの複製、DNAの遺伝情報の解読、DNAに書かれた遺伝子の研究と、常にDNAとともにありました。その間、DNAや遺伝子の科学は驚異的な速度で進展し、膨大なデータが蓄積されるとともに、かつて地球上には存在しなかった人工的なタンパク質やウイルスまで実験室で作れる時代になりました。今後、この分野では、リスクも孕みながら、誰も想像もできなかったような研究が展開されるでしょう。さらに、研究者には実験能力だけではなく、ビッグデータからいち早く宝石の原石を発見する力と高い倫理観が求められるようになるでしょう。
最後に、24年間の大学生活では、エコロジー工学系、環境・生命工学系、応用化学・生命工学系、先端農業・バイオリサーチセンターの教職員・学生、事務職員の皆様に大変お世話になりました。とくに広瀬 侑准教授には研究室の教育研究に多大なご貢献を頂きました。また、東三河地域の農業人材育成プログラム、実験を通じた地元高校生との連携活動などで、地域の皆様、企業・自治体・各種団体様、高校生の皆様と親しく交流させて頂きました。末筆ではございますが、本学教員として定年を迎えるにあたり、これまでお世話になりましたすべての方々に心より感謝し、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
Chapter4Diverseな教育と研究 バイオロジストとして、エンジニアとして
ダイバーシティ推進センター 教授 吉田祥子

学会で、訪問先で、お目にかかった方に名刺を渡しながら、「大学は工学部で学位は薬学です」というのが、私の定番のice breaking(口切り)です。領域のクロスオーバーが進んでいる欧米ではそれほど驚かれませんが、日本では今でも5分くらいの話の種になります。約30年前に、2歳前の子供を連れて本学に赴任した時から、私の教育と研究のダイバーシティが始まりました。工学部に生物系の研究はいらない、と面前で言われたこともありますし、専門課程の女性教員が私で二人目だったという風当たりもあり、赴任当初は風来坊感あふれる日々でした。
本学に赴任しようと企図したのは、生命の動的な現象を可視化する装置を自分で作りたかったからでした。さきがけ・CRESTにいたとき、スティーブ・ジョブスが開発したばかりのNext Stepを用いて、アナログ画像データから細胞のカルシウム変動を抽出するプログラムを自作して喜びに打ち震えました。既存の機器からは機器設計者の想定した現象しか観察できない、新しいことを知るために新しい技術が欲しい。蛮勇を奮って工学部へやってきた日を思い出します。
豊橋の日々は、幾つもの特許、医学・工学研究者との共同研究、企業様との共同研究、医師会や薬剤師会などとのご縁を紡いでくれました。発達期の神経細胞が律動的に伝達物質を放出するさまを可視化する技術を開発したことで、毒性学の研究者との共同研究が始まり、発達障害や発達神経毒性について研究する機会を得ました。妊娠期の動物に、化学物質やストレスを付加することで、発達障害モデル動物を構成することができます。その動物の脳では、正常動物よりも神経細胞が密で、むしろより発達しているように見えました(図1)。
発達障害は古くて新しい病態です。近年は、発達障害と診断される方が小児から成人まで激増しています。一方で発達障害は、疾病というよりそういうパーソナリティと捉える意見も出てきました。薬学領域から来た風来坊の私には、優れた工学系研究者、特に高専出身の研究者には独特のパーソナリティが備わっているように見えます。
ダイバーシティ教育に携わるようになり、学生諸君の「漠然とした」不安を目にすることが多くなりました。21世紀のネットワーク社会は「正しいこと」「普通であること」を、webで、スマホで、ChatGPTで教えてくれます。あまりに基準を提示される環境は、自分はちょっと違う・普通じゃないといった黒い不安を湧き上がらせます。思えば30年前、工学部にやってきた私は、「女性」で「生物系」で、本学ではちょっと違った普通じゃない状況でした。それは多くの理系女性のたどってきた道でもあるのですが、そこにある不安は、「女性だから」の不安ではなく、漠然とした「基準」と異なっている自分を感じていたからではと思います。
本学の若いエンジニアの諸君、基準と違うことは「個性」であり、普通じゃないことは「才能」の萌芽です。そういう未来の芽を伸ばすことが、ダイバーシティ推進センターの仕事であると改めて思う春です。最後に、これまで研究室に参加してくれた多くの学生さんが、私を支え、また新しいアイディアを提供してくれました。感謝と共に、数年前の明るい花見の写真(図2)でこの項を終わりたいと思います。


