豊橋技術科学大学広報誌 天伯
 
大学探訪
 

 
 

新任教員紹介

 
 
 

 

1-1

氏 名:光石暁彦
所 属:機械システム工学系
職 名:助教

 平成19年4月1日付けで,機械システム工学系の助教として着任いたしました。
 こちらに来る前は,東京大学の大学院博士課程に通う一学生でした。専門は数値流体力学(Computational Fluid Dynamics)で,博士論文では同軸噴流における乱流気体混合の能動制御について,自作の解析コードを用いて研究しておりました。本学でも,かねてよりCFDを用いて活発に研究されている方も多く,今から期待に胸を膨らませております。
  学位を取得してすぐの着任という幸運に恵まれ,また周囲の先生方からも日々温かい言葉をかけていただき,新たな地で申し分のないスタートを切ることができたと感じております。教育や研究に関わる諸活動を通して,本学に少しでも貢献できれば幸いです。

 
 
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2-1

氏 名:櫻井庸司
所 属:電気・電子工学系
職 名:教授

 平成19年4月1日付けで、電気・電子工学系の教授として着任致しました。着任前は、NTTマイクロシステムインテグレーション研究所でリチウムイオン電池や燃料電池などの電気化学エネルギーデバイスの研究開発に携わるとともに、東京工業大学の連携教授として大学院生の教育・研究指導を行ってきました。
本学ではこれまでの経験を活かして、地球環境に優しく世の中の役に立つ次世代のリチウムイオン電池・燃料電池の研究を行い、知の創出・伝承・活用を通して本学のプレゼンス向上に貢献したいと考えております。どうぞよろしくお願い致します。

 
 
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5-1

氏 名:三浦 純
所 属:情報工学系
職 名:教授
 
  平成19年4月1日付で情報工学系の教授に着任いたしました。平成元年に東京大学大学院工学系研究科情報工学専攻にて学位取得後、これまで大阪大学大学院工学研究科機械工学専攻において、視覚移動ロボット、ロボットビジョン、ロボットプランニング(行動計画の自動生成)などの研究・教育に携わって参り ました。

 今後は、自律ロボットなどの知的システムを対象とし、センサ情報統合による 高信頼環境認識、動的・不確実な環境下での実時間プランニング・スケジュー リング、人間と知的システム間の快適かつ効率的な情報共有・伝達などに関する研究・教育を進めていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいた します。

 

 
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4-1

氏 名:大平 孝
所 属:情報工学系 無線ネットワーク研究室
職 名:教授

 情報通信ネットワークは電話交換網の時代からインタネット時代へ進化 しました。さらにこれからはユビキタス時代へと発展していきます。固定電話から移動電話へ、ケーブルLANから無線LANへ、放送や通信に加えて交通運輸や家電に至るまで『電波ねっと技術』が果たす役割は益々大きく広がります。大学/大学院での研究プロセスを通して、このような21世紀のICT社会において志し高く活躍できる人材を育成するよう全力を尽くします。

 

 
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6-1

氏 名:杉原 真
所 属:情報工学系 計算機工学分野 
職 名:講師

 平成19年4月1日付で情報工学系の講師に着任しました。学生時代からこれまでの生活の大部分を福岡県で過ごしてきまして、愛知県で生活するのは初めてです。
 私は、“良い”エレクトロニクス製品を開発するための研究を進めています。
“良い”といってもその評価尺度はたくさんあります。例えば、評価尺度としては、製品の価格、バッテリーの持続時間、あるいは、品質といったものが挙げられ、それぞれの評価尺度のもとでより“良い”エレクトロニクス製品を作り上げるために、情報工学のアプローチを駆使することが必要になります。この意味で、本研究分野は学術的にも実践的にも非常に興味深い分野だと考えています。

 今後も、上記の研究分野での活動はもちろんのこと、新規分野の開拓も取り組んでいき、また、教育面でも頑張っていきたいと思います。

 

 
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3-1

氏 名:山本一公
所 属:情報工学系
職 名:助教

 本学での学位取得後、信州大学工学部で助手として勤務し、この度本学に戻ってまいりました。

 専門は、音声認識を中心とした音声言語情報処理技術です。音声認識技術はこの10年ほどでカーナビを筆頭にさまざまな場所で使われるようになってきましたが、周りがうるさかったり、人間が丁寧に喋らなかったりすると、ちゃんと認識 してくれないことがよくあります。このような不自由を解消して、音声認識が誰もが簡単に使えるユーザ・インタフェースとなるよう、頑張っていきたいと思い ます。

 他組織での経験も生かして、本学・地域社会の発展に少しでも寄与できればと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

 
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【身近な技術と科学】ユビキタスネット社会を支える無線通信技術/未来ビークルリサーチセンター准教授 上原秀幸
 
 
 

 

 タイトルにある「ユビキタス」って言葉聞いたことありますか?「ユビキタスネットワーク」とか「ユビキタスコンピューティング」「ユビキタスサービス」というような使われ方をします。最近ではまるで流行語のように使われて,「それ,ちょっと違うんじゃない?」と感じるときもありますけどね。「ユビキタス」とは,「遍在する」「どこにでもある」という意味のラテン語に由来します。この概念は今からおよそ20年前にうまれたものです。どんなに小さなものでもありとあらゆるものにコンピュータが搭載され,それらがすべてつながって,私たちはそのことを意識することなく簡単に使えるというものです。テレビも冷蔵庫も車も傘もみんなつながって,そして簡単に使える。何だか便利で楽しそうな社会,それがユビキタスネット社会です。国もu-Japan政策として2010年にはそんな豊かで人に優しい社会を作りましょう,と重点的に推進しています。具体的なイメージが総務省のページに分かりやすく描かれていますので覗いてみて下さい。

総務省のページ : http://www.soumu.go.jp/menu_02/ict/u-japan/j_r-menu_u.html

 

 さて,そろそろ本題の技術のお話をしなくてはいけませんね。20年も前にうまれた概念がどうして今頃になって脚光を浴びているかというと,もちろん社会の要請もありますが,それを実現可能とする技術革新の果たした役割が大きいのです。1つは,ナノテクやMEMSといったエレクトロニクス,そしてもう1つが今回の主役である通信,特に無線通信技術です。みなさんは普段どんな無線通信システムを使っていますか?テレビ,ラジオ,携帯電話。そうですね。駅やコーヒーショップ等で公衆無線LANを使っている人もいるかもしれません。パソコンのキーボードやマウスを無線化している人もいるでしょう。それはBluetoothという規格です。いつの間にか身の回りは無線通信システムだらけですね。このように無線通信技術といってもたくさんあるのですが,その中から「アドホックネットワーク」というユビキタスネット社会になくてはならない技術を紹介します。

また新しい言葉が出てきましたね。「アドホック」って何でしょう?実はこれもラテン語に由来していて,「その場限りの」とか「そのためだけの」という意味です。したがって,アドホックネットワークとは「ある特定目的のためにその場限りで即席に構築されるネットワーク」ということになります。携帯電話や無線LANでは基地局とかアクセスポイントと呼ばれる中央制御局を介して通信をします。すぐ隣にいる人にデータを送る場合でも遠くの基地局を経由しないといけないわけです。ところが,アドホックネットワークでは,このような基地局や有線バックボーンなどの既存のインフラを必要とせず,すべて対等な無線端末のみで直接通信を行うことができます。さらに,この技術のすごいところは,直接では届かないところにいる端末には,他の端末を中継してバケツリレー式にデータ転送ができることです。これをマルチホップ接続と言います(図1)。

 

 

 

そして,送信元の端末から目的の端末までのルート(どの端末を中継して行けば一番効率が良いか)を決める技術をルーティングと言い,アドホックネットワーク実現の鍵となる技術です(図2)。すばらしいと思いませんか?全く何もなかったところに突然ネットワークができあがって通信できちゃうんです。まさに「いつでも,どこでも,誰とでも…」ですね。友達の輪がどんどん広がって行く様子に似ています。しかし,なかなか簡単には実現できません。というのも,無線端末が移動するからです。移動のたびに端末の配置(これをトポロジーという)が変化し,それに合わせてルートも替えないといけないからです。さらに無線リンク(端末間の通信路)は非常に不安定です。さっきまでつながっていたのに急につながりにくくなったりします。やはりルートを替えないといけません。また,ユビキタスネット社会では,サービスのパーソナル化が益々加速すると考えられます。どういうことかというと,例え物理的なネットワークの構成が変わらないとしても,ユーザの嗜好や環境によって接続経路が変わるからです。あなたが今駅にいるとして,安くておいしいランチを探すときと,乗り換え案内情報が欲しいときとでは,自ずとルートが変わってきますね。このようなことを考慮しつつこれまでにいくつものルーティング方式が提案され,現在は標準化作業も進んできています。

 

 最後にアドホックネットワークの応用例を2つ紹介しましょう(図3)。まず1つ目は,ITS (高度交通システム) の車々間/路車間通信です。車同士が自律的に,時には路側のアクセスポイントも利用して,ネットワークを構成します。これによって,渋滞している先で何が起きているのか,緊急車両が接近中といった有用な情報をその場ですぐに知ることができます。また,交差点での出会い頭の衝突等の予防安全にも役立ちます。もちろんグループ旅行でのエンターテイメント的な使い方もできますね。2つ目はセンサネットワークです(図4)。無線通信機能と1つもしくは複数のセンサデバイスを搭載した小型で大量のセンサノードによって構成されます。例えば,点在する畑にいくつもセンサノードをばらまけば,温度や土壌水分のデータが家にいながらにして分かるので,いちいち足を運んで見に行く必要がありません。さらに,その情報をもとに自動で水を撒くことも可能になります。工場内をはじめ,物流や防犯監視,環境保全などありとあらゆる分野での利用が期待されています。
 いかがでしたか?ユビキタスネット社会はすぐそこまで来ています。それを支える無線通信技術に少しでも興味を持って頂ければうれしく思います。通信とは「通心」に他なりません。IT(Information Technology)も通信(Communications)のCがなければ「仏作って魂入れず」。IT(会いて)からICT(愛して)へ。お忘れなく。。。

無線ネットワーク研究室ホームページ: http://www.comm.ics.tut.ac.jp/

 
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【退職教員より】激動の65年を生き抜いて/生産システム工学系 名誉教授 川上正博
 
 
 

8-1

 

 私が生きてきたこの65年は、明治維新に優るとも劣らない激動の時期だと思います。少なくとも物質文明は桁違いに進歩したと言えましょう。
 生まれたのは、日本海軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まる約2週間前でした。戦争の思い出としては、空襲警報におびえ、水の溜まった防空壕にお張り板を渡した上にジットしていたということ位ですが、戦後の食糧難は、骨身にしみて覚えています。食べられるものは、進駐軍の援助によるトウモロコシ粉やグリーンピース、それに、嵩ばかり大きくした改良型の農林100号というまずい薩摩芋などの配給品ばかりでした。たまには薩摩芋の茎を食べたこともあります。昨夜の夕食は、鰹のたたきをつまみながらビールを飲み、肉団子と大根の煮付けで白米飯を食べました。
 私が小学生の頃、近所のお兄ちゃんがアメリカ車のビック(今でいうbuick)に乗っていました。当時の道は砂利道でした。私達はその排気ガスのいい臭いをかぐために自動車の後を追いかけていました。「あのお兄ちゃんは不治の病気でもうすぐなくなるから、親がかわいそうに思って、あんな贅沢をさせているんだよ」という説明に納得したのを覚えています。今では、私も子供も皆自分の自動車を運転しています。
 高校1年の時、4,5人で友達の家に集まり、将来何をやりたいか、という話をしていました。私は「きれいなカラーテレビを発明したい」といいましたところ、友達には「もっと大きな夢はないのか」と馬鹿にされました。それから数年後に、カラーテレビは発売されました。今では高画質の液晶カラーテレビが比較的容易に入手できます。
 しかし、私が一番感激したのは、結婚して横浜の公務員宿舎に住むことになり、すぐに電話が引けたことです。子供の頃は、隣の貿易商を営むお宅にしか電話がなく、呼び出しをお願いしていました。その後、我が家にも電話を引こうと申し込んだのですが、何年も待たなければなりませんでした。しかも、かなりの額の電話債券を買わなければなりませんでした。ですから電話を持つということは一種のステータスでもあったわけです。今はどうでしょう。我が家全員携帯電話を持っています。
 さて、どうしてこのような桁違いの物質文明の進歩が可能だったのでしょうか。その一つの大きな要因は、工学、技術の発展ではないでしょうか。工学の成果である半導体や人工繊維をはじめとする人工物の創製がこのような進歩を可能としました。また、既存技術の改善も見逃せません。自動車の生産では、ついに、トヨタがGMを凌駕し、世界1位の生産台数に上りそうです。私の専門分野の一つである鉄鋼製造技術も、世界最高の生産技術を誇るところまで来ています。しかし、最高の工学研究は、新しいニーズの創製だと思います。空を飛べることが示されれば、その後、100年で人類は月にまで到達し、半導体の出現により携帯電話も可能になりました。最終講義では、有機超電導材料や、ハイドロシリコン・ポリマーのお話しをしましたが、次の世代の皆さんは、何か夢を追うような研究をしてみてはいかがでしょうか。
 来し方65年を顧みつつ、更なる発展の夢を次の世代に託して退任の辞と致します。

 
 
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【退職教員より】工学=工夫?/生産システム工学系 名誉教授 堀内 宰
 
 
 

9-2

 豊橋技術科学大学に着任したのは、一期生が大学院修士課程に進学した1980年でした。それまで勤めていた大学では、学園紛争の名残でまだ消極的であった産学連携を、豊橋技科大は積極的に推進するとの学風が大きな期待を持たせてくれ、学生、教職員ともに一丸となって新しい大学の立ち上げに汗を流した日々を思い出します。主な建物は完成していましたが、中身についてはまだ十分といえる状態でなく、とりあえずあちこちからかき集めたものを分解修理して実験装置とし、そんな中で工夫と実験を重ね、立派な修士論文を書き上げて巣立って行った学生諸君の、その後の活躍ぶりには驚かされます。「若いときの苦労は買ってでもせよ」とは、よく言ったものです。

 豊橋技科大に来てから、研究のやり方が変わりました。それまでの研究は、既存の技術あるいは他人が開発した新技術を対象とし、それらの有効性や問題点を明らかにすることであり、いわば「技術を科学する」ことでしたが、しかし豊橋技科大では「新しい技術を開発する」ことに専念しました。たとえば、最初に取り組んだ研究は円筒研削に関するもので、熟練技能者しか得ることができなかった真円度0.1μmを、また当時の研削盤では困難であった円筒度0.1μmを、初心者でも実現可能にするための新しい機能を備えた精密円筒研削盤を開発することでした。その後も、「超精密」を「現在の精度レベルを超えようとする意気込み」と勝手な解釈をして、超精密加工における精度追求の挑戦を続けました。いろいろ工夫しましたが失敗も多かったように思います。工夫は、ときには改善(前進)であったり、またあるときには改悪(後退)であったりします。もちろん成功すればうれしかったですが、でもその前に、学生諸君と一緒に考え工夫し挑戦すること、そのこと自体が楽しみでした。ときどき授業でも、「技術者になってから積極的に工夫できるように、今からいろいろ学んで多くの知識を蓄積して行こう」と呼びかけたように思います。しかし、学部1、2年生に工夫を実践して楽しんでもらう授業を提供できなかったことは心残りです。
 豊橋技科大での27年間は長いようであっという間でした。いろいろなことが思い出されます。ともに学び挑戦した学生諸君をはじめ、それなりに快適かつ充実した日々を過ごさせていただいた豊橋技科大の教職員の皆様、そして親しくお付き合いさせていただいた学会・産業界の方々に心よりお礼申しあげます。
 最後に、豊橋技科大のますますの発展と皆様のご活躍を祈念します。まだしばらくの間、寄附講座「オーエスジーナノマイクロ加工学講座」の客員教授として微力ながらお手伝いさせていただきますので、どうぞよろしくお願い申しあげます。

 

 
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【退職教員より】豊橋技科大での11年/電気・電子工学系 名誉教授 恩田和夫
 
 
 

 

10-1

 今年の3月で豊橋技科大(電気電子工学系)を停年退職した恩田です。11年近くお世話になり、大変有り難うございました。思えば、大変充実した11年で、学生さんが想像以上に良くやってくれたので、研究に専念できた11年でした。最終講義でも述べさせて頂いたのですが、土日が無い程研究に没頭し、この度めでたく現役生活を卒業させて頂いた、と言うのがいつわざる現在の心境です。
 11年前、平成7年の暑い9月に、筑波にある電子技術総合研究所(現在の産業技術総合研究所)から、縁あって豊橋の地に移って参りました。それまでは中間管理職のような仕事に携わることが多く、通商産業省・工業技術院に行って研究プロジェクトを折衝し、研究所に帰って研究開発を推進するのが常でした。しかし、歳と共に研究の現場に立ち難くなったのが不満でした。現役生活を終える前にもう一度、研究の現場に戻りたいと思っていたとき、大学への移籍話しがありましたので、喜んで豊橋の地に参りました。それも東京に居ると、学会や工業技術院など関連する付き合いが多く、避けられない状態でしたので、できれば東京の地を離れ、研究に多くの時間を割きたい気持ちがありました。
 豊橋の地に来て仕事を始めると、この望みは見事に的中していました。ただ一つだけ、誤算がありました。それは学生さんが実に良く研究をしてくれたので、私もそれ併せて研究を懸命に進める羽目になったことです。最初は研究をのんびり楽しんでする積もりで、研究テーマを電子技術総合研究所時代から引き継いだ四つ(燃料電池、水電解、二次電池、放電化学)とし、学生さんを四つのグループに分け、それぞれ毎週2時間ずつ(正月とお盆を除き)、ゼミでじっくり研究テーマを勉強し、議論していました。ところが技科大生は、聞き及んではいましたが、実に理解も早く、手足が動き実験も早いので、予定以上に研究が早く進展しました。そうなると学会発表や投稿論文が増え、更に研究資金も必要となり、私は投稿論文の推敲や研究助成への応募と、豊橋に来て2~3年も経つと土日に休む暇もなく、家族の待つ筑波に帰ることも少なくなりました。そして毎年5件以上の論文が採択されるようになり、科研費やNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)、RITE(地球環境産業技術研究機構)、企業との共同研究など、多くの研究助成を得られるようになりました。
無論、得られた研究成果は世の判断に委ねられますが、私としては十二分に研究に没頭できた11年間でした。私がこれ程忙しかったので、多分、学生さんや助手の方々はもっと忙しかったのではと反省しています。しかし、学生さんも世の中に出れば、仕事はきついこともあり、その対応も含め一端を経験できたのではと願っています。3月に無事、技科大を卒業し、今は筑波に戻りホットしてこの原稿を書いています。これからはお世話になった世の中へ恩返しする意味で、豊橋技科大の非常勤講師として一部の授業を担当させて頂き、また、豊橋技科大客員教授として、幾つかの学協会で奉仕活動をし、更に、これまでお世話になった方々のお誘いに従い、幾つかの仕事をお手伝いさせて頂く積もりです。

 これから、18歳人口が減り、豊橋技科大を含めた大学の歩む道は益々険しくなると思われます。技科大の建学当時の気持ちを思い出し、教育・研究の原点に戻り、嫌なことでも先送りせず、果敢に困難に立ち向かわれることを祈念しつつ、重ねて御礼申し上げます。

 
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【退職教員より】企業は人なり、まして大学は人なり/電気・電子工学系 名誉教授 米津宏雄
 
 
 

 

11-1

最終講義  2007年3月9日

 私は企業の中央研究所、事業部、そして大学と、異なる文化を持つ三つの組織を経験してきました。NECで約20年間、本学で約20年間、一貫して光半導体の研究開発をしてきました。いま、各組織で優れた人々に出会い、育てられたと実感しています。
 NECの中研時代には、故林厳雄博士を中心とした優れた研究者の中で育ちました。林厳雄博士は、米国ベル研究所で1970年に半導体レーザの室温連続発振を達成され、2000年のノーベル物理学賞・受賞者Alferov博士(旧ソ連)らと、2001年に「京都賞」を共同受賞されました。林博士は、1971年に日本に帰られ、以来約10年間、毎日我々を指導されました。最初、拍子抜けしたほどに、威厳的な態度がなく、平易な言葉で、“なぜだろう”、“どうしたらよいか”と、およそ20歳も年齢が若い我々とフラットな目線で議論されました。その真摯な姿勢は企業間の垣根を越え、春秋の応用物理学会・講演会で活発な討議を促すことになりました。これが、後に日本企業の半導体レーザが世界に冠たるものになったと誰もが思うようになりました。そして、当時の研究者が集まって、「林さんを囲む会」ができました。今は、「林さんを偲ぶ会」になっています。
 NECの事業部時代には、入江俊昭博士(後に、日本モトローラ社長、会長)に、事業の神髄の一端を教わりました。きわめてシャープな考えと、バランス感覚を持って事業を進めて行く姿勢を、厳しくかつ暖かい目で指導していただきました。
 このことを、大学に移ってしばらくしてから初めて実感しました。本学においても、多くの優れた先生に教えられたことはいうまでもありません。もう少し時が経つと、さらにそのことを実感するであろうと思っています。
 立場を逆にして、私は学生に何をしてあげられたかと自問してみますと、上記の方々の姿勢を私流に身につけて伝えているように思えます。この4月に研究室の学生OBが集まった場でもそのことを感じました。こうして、先人の優れた教えは伝わっていくのだと。
 上記のことを通して、人の育成という面から、“教育と研究”という言葉の意味の深さを改めて感じています。育成の一助として、定年前の2年間に力を入れたことが一つあります。それは、「博士学生特別支援制度」の創設です。教育と研究の最高峰を行く博士課程の学生は、欧米と異なり、日本では経済的に大きな負担を強いられます。日本学生支援機構(旧日本育英会)からの奨学金は何百万円もの借金となり、その返済に社会に出てから苦労しています。とくに、日本人学生の大方はこれに頼るしかなく、志の高い学生も進学を躊躇します。  
  一方、「科学技術創造立国」を目指す我が国では、博士課程修了レベルの研究開発能力が今後ますます求められます。また、大学の研究レベルは博士学生の研究レベルに大きく左右されます。研究室の雰囲気は、優秀な博士学生によって良くなり、周囲の学生に良い影響を与えます。
 このため、志が高く、能力の高い学生の経済的負担を大幅に軽減しようと、「大学支援」と「教員支援」の二本立ての制度にたどりつきました。前者は、きわめて優秀ですが、教員の外部研究資金による支援が難しい学生に道を開きます。後者は、教員の外部研究資金によって支援する制度で、欧米型に近い制度です。西永学長の強い支援のもとに、当時の事務局長や各系長の先生から心強い賛同の意見を得ました。教育担当の松為副学長の具体的な指示のもとで、学生課を中心として他部門にわたる事務部門の方々の尽力によって、この制度は平成18年度後半からスタートしました。
 この支援制度には、指導される先生の厳しくかつ暖かい指導があってこそ、魂が入ります。「石の上にも3年」という言葉のように、この制度が本学の発展の確たる土台となるのにはそれなりの年月が要ると思われます。将来、この制度のもとで志の高い学生が大きく成長して、新しい健全な社会へ向けて羽ばたく姿を期待してやみません。「企業は人なり」といわれますが、「大学はまして人なり」です。

 

 
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【退職教員より】さまざまのこと思い出す桜かな-/情報工学系 名誉教授 横山光雄
 
 
 

 

11-1

 大学に採用される前の30年間は郵政省の研究所に勤務していました。衛星通信、陸上移動通信、そして衛星パケット通信の研究に従事し、後の数年は管理職につきました。大人の付き合いが長いため、大学では学生との付き合いをスムースにできることを大事にしました。
 一番初めに心がけたのは、学生に良い講義をすることでした。学生時代にの経験で思い出に残る講義は、学問だけでなく、偉人伝や失敗談、古典に出てくる人間学だったので、そのようなことを取り入れて講義をしました。アンケートに「先生の講義より、途中で出てくる話を聞きたくて」講義を取りましたというのがあり、その目的は果たせたようです。しかし、分かる講義でなければならないので、ショートテストを毎回やり理解を深める仕掛けを作りました。「解く時間が少ない」の苦情には、講義開始時にテスト問題を示し、講義のどこを理解するのがポイントかを示しました。正解は、次の講義の時に示しましたが、次回では忘れるなどの要望が出てきました。そこで、講義を1時間にし、後の15分をテストにむけ、早く解けた学生に黒板に出てきて解答を書いて貰い、サインをして貰うことにしました。これは、競争で、我先に問題を解く学生が沢山いて、成功だったと思います。


 次に心がけたのは学生の悩み解決です。学生が何時来ても入りやすいようにドアは開けておきました。「修士に推薦で行けない学生」とは昼休み時間に問題を一緒に解いて励ましたり、他の講座の学生が「他大学の修士に行きたい」との話を聞いてあげたり、「引篭りの学生」とは真剣勝負で対峙したり、「病気の学生」を虎の門病院の先生に診てもらう算段をしたり、色々なことが思い出されます。学生の悩みを聞く代わりに、私の悩みも学生に聞いて貰い、学生が帰った後であわてて「あのことは口外しないでくれ」とメールで依頼したこともありました。研究は、「解決策を提案し、それをミュレーションで確かめ、思いどおりの結果が出たら理論解析を行う」というやり方です。スペクトル拡散分野の同期回路では、「信号対雑音比が小さくても高速で高安定で満足に動作する」ものがまだありませんでした。この課題に、3人の学生が関わり、最終的に今までにない高速高性能のシステムを実現できました。研究に関わる悩みや真剣な討論を得て、成し得た成果は格別です。初めの学生は「種を撒く人」、次は「肥料をやる人」、そして最後は「実を取る人」です。この3人が、この5月と6月に結婚します。その式に招待されています。幸せな場につき合わされるのは、この上ない喜びです。
 この3月で大学を離れましたが、今後を考えると「大学が大変な時代」を迎えるのに申し訳ない気持ちです。どうか、先生方が一致協力し、難局を乗り越え、素晴らしい大学実現を果たして頂きたいです。第2の人生として勤めさせて頂き、先生方ならびに事務の皆様から多くのことを学ばせて頂きましたことに心から感謝致します。そして、私に寄与できることがあれば、何らかの形で貢献させて頂きたいとも思っています。
   
 
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国立大学法人 豊橋技術科学大学