豊橋技術科学大学広報誌 天伯
 
特集
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メディア科学リサーチセンターの紹介/センター長 中川聖一
 
 
 

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 本学では、視覚、聴覚、音声、言語、画像、映像、音楽、信号処理などのメディア系の多くの研究者が複数の系にまたがって在籍し、この分野のポテンシャルは高いものがあります。しかし、個々の教員の研究活動では、最近のように複数のメディア・複数モダリティにまたがる情報を取り扱うマルチメディア・マルチモーダル処理への展開には限界がありました。そこで、メディア関係の研究者が結集し、情報交換と共同研究の場を設け、外部に積極的に新しいパラダイムを情報発信していく組織として、平成18年12月にメディア科学リサーチセンターを設立しました。
 

20世紀が物質的な豊かさを求めた世紀であったとするなら、21世紀は精神的な豊かさを求める時代と言えるでしょう。人は人と語らい(音声)、オーディオ(音楽)やビデオ(映像)に癒され、絵画(画像)に感性を刺激され、書物(言語)に知的な安らぎを感じます。そして現在、これらのメディア情報はインターネットで世界中に分散して共有されるようになっています。さらに将来、情報機器はロボットなどに姿を変え、マルチモーダルなコミュニケーション手段を備えて人間と共生し人の暮らしを豊かにします。それゆえ、精神的な豊かさを求めるには、メディアの本質(視聴覚)を解明する研究、メディア処理技術の研究、メディア応用技術の研究などばかりでなく、メディア情報処理の環境基盤としてのコンピュータネットワークや計算機システムの高度化研究も必要となっています。本リサーチセンターはこれらの分野・領域をカバーする次の5つのコアから構成されています。

本リサーチセンターは、以下の実現を図って行きます。
○ 情報系の研究拠点形成
○ 系横断的連携の推進と外部資金の獲得
○ 学外研究組織・研究者・高専との連携の促進(平成19年4月からは、他大学から7名の客員教員を迎えています)

○ 音声ドキュメント処理や視聴覚、信号処理ワークショップの開催
○ 学内研究発表会


今後とも、本センターにご理解とご支援をお願いいたします。

 

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教材



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組織および研究項目

   
 
 
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寄附講座 オーエスジーナノマイクロ加工学講座/理事・副学長 小林俊郎
 
 
 

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1976年10月に、主に高専卒業生の大学進学に新たな道を拓くことと、産学連携をわが国でも振興するという大きな目的を持って両技科大が創設されました。寄附講座については、1987年に文部大臣裁定により国立大学等の寄附講座及び寄附研究部門の実施についての通知が出されスタートしています。2003年4月1日付けのデータでは、37大学(91寄附講座、37寄附研究部門)にこのような講座が開設されています。企業等からの奨学寄付金によって、特任教授や特任准教授を任用して教育研究がおこなわれ、給与や研究費、光熱水費なども賄われます。年間平均は約3,000万円が必要と言われています。開設期間は2年以上5年以内の時限ですが、更新も可能です。
 本来もっと早く本学でも設置が望まれた講座ですが、30周年記念事業という契機もあり、オーエスジー(株)殿の多大なるご厚意により初めて2007年4月に設置されました。4月12日には開設式が挙行されました。講座の内容と構成については表1,2のとおりです。

 

 

教授は柴田教授(本学生産システム工学系)が兼任していますが、世界的な工具メーカーであるオーエスジー社は世界展開をターゲットとしており、世界的な研究者がおれば是非ここに参加をして欲しい希望です。主の教育研究の骨子は表のとおりですが、精密加工の中でも特にナノマイクロ加工技術に焦点を絞ったイノベーションが期待されています。
オーエスジーからは村上准教授が参画されますし、本学堀内名誉教授も客員教授として協力されます。
 これを契機に、近隣5信用金庫が結集した「しんきん食農技術科学講座」も設置されました(詳細は別の機会とします)。法人化に伴う人員削減が大学で進行中ですが、今回の寄付講座のような産学連携で補えば、極めて有効といえます。今回の講座は、本学生産システム工学系内に設置されます。図1に示しますように、他の加工学、材料工学、生産計画学などの分野とうまく連携・融合できれば双方にとって大きなシナジー効果をもたらすでしょう。是非成功させたいものです。

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                   図1

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表1

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               表2

 
 
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豊橋技科大物語 誘致編4 -極秘に考えた「天伯案」技術科学大学院の豊橋誘致大詰め-  
 
 
 

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  -極秘に考えた「天伯案」技術科学大学院の豊橋誘致大詰め-
  10月5日付 東日新聞

 

 既存大学の学園紛争の最中、文部省は目的に応じた単科大学の新設を進めた。高専卒業生の受け皿として工科系大学と共に、医科大学の設置計画も進めていた。市立(民)病院を持たない浜松市は、この国立医科大学の誘致に命運を賭け、いち早く誘致運動を展開し、誘致に成功していた。豊橋市も一時水面下で動いたが、市民病院を持たない浜松市は必死であり、遠く及ばなかった。豊橋市には立派な市民病院があり、国立病院もあった。
 都市開発部計画課の松下龍也課長は浜松商工会議所関係者から、「浜医大誘致」の裏話を聞き出した。「先に用地を確保しておいて、建設地はあります、すぐ建ちます。さあどうです。それが功を奏した。結局そんな話でした。その話を青木助役にすると、そりゃそうだ。いい事を言うなあと言って、腹案はあるかと聞かれたんで、天伯はどうでしょうか」
 当時、天伯は住宅団地建設のため、豊橋総合開発機構の子会社である総合用地が用地買収を進めていた。しかしお墓の移転問題などで暗礁に乗り上げていた。豊橋総合開発機構の藤川一秋社長と青木助役とは大変親しかった。そこで、青木助役はこの天伯に狙いを定め、交渉の準備に入った。すでに必要な30f余(10万坪)のうち80%近くを買収してあったので、大学誘致の決め手にしようと考えた。
 「青木助役に、誘致に失敗した場合、どうするんだと聞かれたんで、失敗したら元の住宅団地に戻せばいいでしょうと言ったら、それもそうだなあとあっさりしていたよ」
 この「天伯案」は河合陸郎市長にも伝えた。河合市長は「絶対に誰にも言うな」。極秘中の極秘とし、秘策とした。公式的には、神野新田、伊古部、吉祥・嵩山を加え、4つの候補地を並列に扱った。

 73(昭和48)年度予算に、遂に新構想大学「技術科学大学院」の調査費が盛られた。田中角栄首相が動いた。そんなウワサが流れ、選挙区である新潟県長岡市に設置されるのは確実とされた。「全国で2カ所だ。1カ所は長岡だ。残る1カ所を全国で取り合う戦いだ」。青木助役がゲキを飛ばした。
 技術科学大学院の設置が具体的に動き出した。
 そのころ、豊橋JCの運動は豊橋商工会議所を動かし、産学官一体となった全市的な運動に広がっていた。4月に市、商工会議所、JC、高専関係者らが出席して新大学設立研究会を開催し、気勢を上げた。
 そうした結果、豊橋が有力な候補地となって実体を持つようになった。9月には4つの候補地を調査し、文部大臣はじめ関係各方面に陳情した。11月に入ると、文部省に候補地調査表を提出してヒヤリングを行った。12月には商工会議所内に改めて「技術科学大学院誘致推進協議会」を設け、関係機関への陳情に一層力を入れた。
 東京・霞ヶ関でも並行して動きがあった。64(昭和39)年に豊橋青年会議所理事長となった神野信郎氏(のちに中部ガス社長など)は翌65,66年と2年間にわたって日本青年会議所の副会頭を務め、67年の監事を経て68(昭和43)年には会頭に選出された。
 「日本JCを通じて、自民党文教族といわれた藤波孝生さんはじめ河野洋平さん、海部俊樹さん、西岡武夫さん、森喜朗さんらと知り合い、豊橋に来てもらって講演などをお願いしました。特に日本JCの会頭仲間だった牛尾治朗さん(ウシオ電機会長)には、主宰していた社会工学研究所を挙げて応援してもらいました。」
 技術科学大学院の豊橋誘致が天王山を迎えようとしていた。
(山崎祐一)

 

 

 
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豊橋技科大物語 誘致編5 -「豊橋に決めましょう」青木助役の大芝居奏功す- 
 
 
 

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 -「豊橋に決めましょう」青木助役の大芝居奏功す-
  10月6日付 東日新聞

 

 豊橋青年会議所の73(昭和48)年理事長に福井恒夫氏(マルアイ社長)が就いた。福井氏は立大だったが、弁論大会などを通じ、早大雄弁部の藤波孝生、西岡武夫、河野洋平、海部俊樹氏らと親しかった。友人だった。技術科学大学院誘致運動の「JC隊長」を努めていた磯村定司社会開発委員長(イソムラ保険事務所代表)は「陳情で文部省に行った際、福井さんが呼び出すと、西岡氏が中庭に下りてきて、おお福井、西岡と言って抱き合った姿を今も忘れません。写真を撮り忘れたのが残念でなりません」と語る。
 一方、日本JCの会頭を務めた神野信郎氏(中部ガス会長)は、文教族の藤波、河野、西岡、海部の各氏らがJC会員だったことから日本JCを通じて知り合い、この福井氏の紹介などもあって、急速に親しくなった。折にふれ、大学誘致について懇願した。
 「例の提言書(昭和45年)がまとまった際に、時の理事長だった大塚公歳(佳和)君と2人で、自民党文教部会に出席し、豊橋の大学誘致に対する考え方などを説明し、よく分かったと言って、感動してもらえたことを覚えています」
 

 73(昭和48)年度予算に新構想大学の調査費がつき、夏に技術科学大学院など3大学構想が発表されると、全国各都市が手を挙げた。
一時40カ所にも上り、愛知県内で名古屋市まで参戦したが、順に絞られ、和歌山市など8都市による陳情合戦となった。
 豊橋市は早くから誘致運動を行っていたとは言え、文教族と言ってもまだ若手議員であり、国会全体、あるいは文部省、大蔵省といった観点からすると、楽観できるような状況ではなかった。
 神野氏は「脅威に感じましたね。誘致できると確信していましたが、上村千一郎先生は甘い考えじゃダメだと言い、河合陸郎市長も本気で心配していました」と振り返る。
 それまでの議論で、日本海側に1校、太平洋側に1校建設するような計画になっていたが、大蔵省の査定で日本海側の長岡1校しか認めず、太平洋側の1校である豊橋は復活(次官)折衝となった。他の立候補都市の問題もあった。
73(昭和48)年12月27日、決戦のその日が来た。暮れも押し迫り数日で正月を迎えようとしていた。豊橋誘致が成功するかどうか、文字通り天王山だった。
 「河合市長から呼ばれ、出向くと、青木助役が一緒でした。私は行かない。2人で行ってくれと言われ、最後の切り札にせよと言って指示されたのが、天伯の用地話でした。すでにもう買ってある、準備万端整っている。そう言って説得するんだ。そんな趣旨でした。最後まで秘密にし、最後の切り札だぞ、と言って念押しされました」
 青木助役と神野氏、それに中村剛秘書室長補佐の3人で上京した。文部省に着くと「きょうは徹夜だぞ」と意気込んだ。
 
  当時、海部俊樹文部次官だった。文教族トリオといわれた藤波・文教委員長、河野・自民党文教部会長、西岡氏が文部次官室にいた。応接室に呼ばれたのは日付が変わって午前1時過ぎだった。
 神野氏が海部氏に近寄ると、「きょうは政府側の立場だからと言って、扉を開けたまま、隣の部屋にいました」。青木助役の折衝が始まった。
 「豊橋はですね、この通り、10万坪の用地が買ってあるんですよ。いつでも提供できます」と言って、天伯地図の図面を見せた。続けて「東海銀行の頭取が判を押し、豊橋市長の公印もある。確かなものだ。地元の熱意をおくみ取り願いたい」
 総合開発機構の子会社である総合用地が住宅団地用に先行取得していた図面を借用し、大芝居を打った。
 「豊橋さんはそこまでやっているんですか。よろしい。豊橋に決めましょう」。そう言って文教族トリオが立ち上がって、青木助役と握手した。
 横で聞いていた神野氏は「感激しました。土地は用意してある。あの一言が決め手になりましたね。藤波さんは豊橋JCの大学構想が文教部会を感銘させた」と言ってくれました」と振り返る。
 浜松市が誘致した国立浜松医科大学は74(昭和49年)年に開校した。豊橋に技術科学大学院の設置が決まる半年ほど前のことだった。それから3年後に付属病院が開院した。
(山崎祐一)

 

 

 
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豊橋技科大物語 誘致編6 -すべて河合市長の采配 文部省の建設地下見始まる- 
 
 
 

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-すべて河合市長の采配 文部省の建設地下見始まる-
 10月8日付 東日新聞

 海部俊樹文部次官らのはからいで、74(昭和49)年度の政府予算案に「豊橋市設置」が計上されたものの、衆議院および参議院本会議で可決・成立しなければ正式決定ではなかった。
 文部大臣の永井道雄氏は、東工大教授時代の69(昭和44)年11月に豊橋を訪れ、豊橋JCの例会に出席して大学について講演するなど、豊橋に親しみを持っていた。
 「永井さんは理化学研究所と関係が深い人でした。その理研の創始者が、吉田藩の最後の藩主・松平信古(のぶひさ)ゆかりの大河内正敏だったことから、豊橋に大変親しみを持っておられた。居酒屋ミッキーでご一緒したりしました」
 神野信郎氏(中部ガス会長)はこう語り、「豊橋の大学誘致に大変な理解を示していただいていました」。
 地元選出の国会議員、上村千一郎代議士は文部省に近かったことから衆議院、村田敬次郎代議士が主に参議院を担当し、実力者に理解と協力を求めて回った。
 「ちょうど河野洋平さんの伯父の河野謙三さんが参議院議長だったので、河野さんに同行してもらって、村田さんと一緒に会いに行きました。この一件に限らず、多くは河合市長の指示で動いたことです」
 日本社会党の岡田哲児代議士も陳情団に加わるなど、積極的に協力した。工科系大学誘致・産学協同について「党としては反対だが、地元の立場では賛成だ」と公言し、「豊橋のためになるならば」と率先して誘致運動に加わった。「陳情先の文部省で、社会党の先生もご一緒ですかと言って、感心していただいた。地元の熱意を感じてもらったことが今も忘れません」と、同行した豊橋JCの磯村定司社会開発委員長(イソムラ保険事務所)。
 「技術科学大学院だけじゃない。私はね、良妻賢母を育てる女子大学も造るつもりだ。百年の計を考えて、人種改良しなけりゃいかん。全国から優秀な頭脳が集まる訳だから、良妻賢母を育てて一緒になれば、いい家庭ができる。たとえ卒業して全国に散らばろうとも、妻の実家のある豊橋には必ず年に何度か里帰りするものだ。豊橋(東三河)地域は消極的な人種だから、そうでもして改良しないと、地域が良くならない。ただ大学を造るだけじゃなくて、一緒に人間もつくってこそ教育だよ。私はそこまで考えているんだ。」
 青木茂助役は、技術科学大学院の陳情の際、文部省に対してよくこんな話をした。のちに「文部省で面白いことを言うヤツだと言って、聞いてくれたよ」と満足そうに振り返っている。
 翌74(昭和49)年が明けると、文部省大学学術局から建設用地の視察が始まった。青木助役は腹案として天伯地区を考えていたが、表面には一切出さず、当初、係官らの自主判断に任せた。中村剛秘書室長補佐が同行し、案内したが、実際は総合開発機構(総合用地)との細部の調整が進んでいなかった。
 神野新田地区を見て「塩害がひどい。工科大学には適さない」。吉祥・嵩山を見て「遠すぎる。高圧線が通っていて不適だ」。伊古部地区を見て「塩害もさることながら遠すぎる」などなど。どの候補地も帯に短しタスキに長しの状態で、決め手に欠けた。

 2月中旬、文部大臣から河合陸郎市長あてに、上京するように知らせがあった。文部省大学学術局技術教育課内に「技術科学大学院創設準備会」が設けられ、最初の会合が開かれた。豊橋市に対し、正式に技術科学大学院の設置が伝えられ、協力を要請された。これに呼応し、豊橋市も「国立技術科学大学院設置対策会議」を発足させた。
 秘書室長補佐として河合市長に同行した中村剛氏は「帰りの電車の中で、河合市長から『これでやっと君の勤め先ができたぞ』と、ナゾめいたことを言われた」。2日後には企画主幹(課長待遇)を命じられ、新年度(4月)人事で秘書課企画主幹となり、国立技術科学大学院設置対策事務局担当を命じられた。 文部省から係官が豊橋市に常駐するようになり、建設地探しが本格化した。
(山崎祐一)

 

 

 
 
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国立大学法人 豊橋技術科学大学