豊橋技術科学大学広報誌 天伯
 
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開学30周年記念事業が進行しています ~確かな礎から未来へ~/開学30周年記念事業推進室長 加藤 史郎
 
 
 




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〔1〕3本の柱を中心にいろいろな企画が実現されつつあります。みなさまのご参加、ご協力をお願いします。
 開学30周年記念事業は、皆様のご理解とご声援に支えられ、平成18年4月から開始されました。豊橋技術科学大学の未来の開拓を目指し、
 (1)産学連携の推進に関する事業、(2)地域連携の推進に関する事業、(3)学生支援の充実に関する事業の3本の柱を中心として、いろいろな記念事業が展開されています。

 この事業は、平成18年度から20年度の3年間に渡り継続されます。
 西永学長の挨拶、趣旨、事業の概要など、また、各種の事業など詳しくは、30周年ホームページをご覧ください。

 

 30周年事業では、いろんな企画が実現されつつあります。

 みなさまのご参加、ご協力を! 趣旨、事業、事業推進組織、記念事業、
 30年史(30周年記念編集)などは、30周年ホームページをご覧ください。



〔2〕皆様のご理解ご協力を頂き、30周年記念事業が順調に推進されています。
 平成18年4月から開始された記念事業は、同窓会、自治体、産業界のご理解とご協力を頂き、順調に推進されています。
 西永学長を委員長とする開学30周年記念事業委員会には、各界から委員にご就任いただいております。その下に、記念事業実行委員会(記念式部会、年史編集部会、事業部会、募金部会)及び記念事業分野別特別委員会(同窓会委員会、産業界委員会、地元委員会)を置いて、各種事業を推進しています。

 今までに実施されました記念事業の詳細につきましては、本学ホームページトップのバナーから30周年ホームページにアクセスしてご覧いただけます。
 記念事業の中でも、平成18年10月に行われた記念式典・祝賀会には、文部科学省、大学、高等専門学校、自治体、産業界、同窓会のトップの皆様にご臨席賜りました。元東京大学総長の吉川先生には、21世紀の技術科学のあるべき方向、豊橋技術科学大学の進むべき方向などに関して、基調講演をいただきました。祝賀会では、多くの方々から祝辞や貴重なご助言を賜りました。厚くお礼申し上げます。
 また、30周年記念編集による、本学30年史を平成18年10月に発刊しました。この30年史の内容は、30周年ホームページでご覧いただけます。
 これらの事業の推進については、一般の市民、企業、卒業生の皆様から貴重な浄財を賜り、事業の推進に使わせていただいております。ここに、重ねて、お礼申し上げます。

 

 30周年記念の募金にご協力をお願いいたします(募金期間は、平成18年から平成20年度の3年間です)。

 募金のご案内は、30周年ホームページをご覧ください。


 

〔3〕産官学連携に関する事業が多方面で展開されています。
 3本柱のひとつである産官学連携については、企業、自治体、研究機関などと包括協定を結び、(1)寄附講座/連携講座、連携研究室、連携研究を推進し、さらに、組織的な展開を図るため、(2)産官学連携推進本部の設置と(3)東京オフィスの設置の実現を目指し、広範な分野で展開されています。

3.1 リサーチセンターの設置:

 21世紀COEプログラム採択研究の拠点形成を目的とする「インテリジェントセンシングリサーチセンター」、「未来環境エコデザインリサーチセンター」のほか、先進的な総合的学術研究推進のための「未来ビークルリサーチセンター」、「地域協働まちづくりリサーチセンター」も合わせ4リサーチセンターがすでに設置され、世界的教育研究拠点の確立のため開発研究が推進されてきましたが、開学30周年記念事業として、「先端農業・バイオリサーチセンター」、「先端フォトニック情報メモリリサーチセンター」、「メディア科学リサーチセンター」の3センターが設置され、新分野・融合型の新しい研究が展開されています。


「先端フォトニック情報メモリリサーチセンター」(18年10月設置)
 先端的フォトニック情報メモリに関する国際的研究開発拠点として、国内外大学・研究機関、国内企業等との密な連携により客員教授等をすでに招聘し、新しい国際的な研究開発連携体制を構築するとともに、ホログラムメモリ、記録材料、関連周辺技術について基礎・開発・試作に渡る新規の総合的な研究を開始しています。

「先端農業・バイオリサーチセンター」(18年10月設置)
 農業や関連する食農産業に資する工学的、生物学的要素技術の開発と実用化を行い、未来型の農業システムと食農産業クラスターを構築、並びに食と物質循環に関連して地域エコライフのあり方の提案をすることを目指しています。さらに、次世代の農業を目指し、人材養成・農業生産技術の開発等を通して地域貢献を推進する企画が進められており、東三河のみならず、都市近郊農業や林業を抱える三遠南信の地域から大きな期待が寄せられています。

「メディア科学リサーチセンター」(18年12月設置)
 情報技術を基本にして新領域の技術と研究の開拓が開始されています。視聴覚、メディア信号処理、情報環境、セマンチックアーカイブ、e-Learningなどの分野を中心に研究拠点形成を目指し、大学間連携研究、産学連携研究等として推進が開始されつつあります。ものづくりの中心である東海地域が、「メディア科学」との融合により、日本だけでなく世界の生産拠点として生産分野の中心として今後とも発展し続けるための新技術の開拓が期待されています。


3.2 寄附講座の設置
 特に、寄附講座の設置については、「ものづくり」、「農工連携」、「医工連携」などの分野に関して活動拠点を設置するため、講座の寄附者と包括協定を結ぶなどして、従来の寄附講座の概念を越え寄附者との連携による運営を行う方向で進めています。現在、オーエスジー株式会社との包括協定の下、平成19年4月からの「寄附講座」の設置が進められています。先端的精密加工技術と最新の計測制御技術を駆使したナノマイクロ加工技術などの研究が推進されます。高度化・先端化する東海地域の工業生産(ものづくり)への貢献が大いに期待され、当該分野での世界的な拠点を目指しています。
また,5信用金庫との包括協定の下での先端農業に関する寄付の話も進められています。


3.3 東京オフィスの設置
 企業、自治体、研究機関などと密に連携して組織的に力強い研究開発を推進するため、全学的な推進組織を立ち上げる準備に入っています。30周年記念事業の推進の一貫として、その全体構想が検討されています。
 現在すでに設置されている研究戦略室や知的財産・産官学連携本部などを基盤として、教育・研究・管理運営ビジョン(将来構想)に基づいて、産官学研究連携推進本部の設置を計画中です。具体的には、この構成組織として、研究戦略室・産官学リエゾンオフィス・研究推進統括機構・知的財産室などを検討しており、特に、東京オフィスは、文部科学省、経済産業省ほか中央省庁に関する産官学連携施策の動向の情報収集・連絡調整、技術相談及び共同研究等産学連携の推進窓口・各種技術相談、本学情報の提供、学生の就職活動支援、その他・本学の教育研究の展開及び産官学連携の推進活動を推進するために、平成20年4月に開設を目標に準備を進めています。
 すでに、インドネシア、中国にサテライトが置かれていますが、豊橋市内にあるサテライトとともに、幅広く情報発信・収集に当たります。


3.4 包括的連携協定の締結
   企業、自治体、研究機関などと密に連携して力強く研究を推進するため、すでに提携済みの企業等に加え、30周年記念事業の一貫として包括的連携協定を進めています。今後とも拡大の予定でいます。


包括的連携協定先

神鋼電機 新東工業 新東ブレーター トピー工業
オーエスジー 愛知大学 農業環境技術研究所 物質・材料研究機構
豊橋市 田原市 新城市 愛知県
豊橋信用金庫 蒲郡信用金庫 豊川信用金庫 浜松信用金庫
愛知銀行 岡崎信用金庫    

 

 

 

 





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〔4〕地域連携を推進しています。
 大学のミッションのひとつとして地域連携はきわめて重要であり、開学30周年記念の冠をつけた多くの事業(30周年ホームページをご覧ください。)がすでに多く実施されております。
   「市民大学トラム 3大学連携講座(豊橋市、愛大、創造大、本学)」、「ウイークエンドセミナー」、「技科大祭」、「吹奏楽団定期演奏会」、「本学出身高専教員交流会」、「豊橋技術科学大学現代GPシンポジウム」、「豊橋技術科学大学新技術説明会」、「未来ビークルリサーチセンターシンポジウム」、「視覚科学技術シンポジウム」など、市民向け、学生向け、企業向けの色とりどりの企画が実施されております。
 今後実施されます地域連携向けの行事についても、30周年ホームページに掲載の予定です。
 地域連携の中でも地域を強く意識した「農工連携」分野の開発研究事業として、「先端農業・バイオリサーチセンター」があります。このリサーチセンターについては、3.1のリサーチセンターの項をご参照ください。
〔5〕学生支援事業を推進しています。
 学生支援として種々の事業が企画されています。学生交流会館の建設、博士学生に対する支援、大学院生海外実務訓練への支援、照明灯などのスポーツ施設整備、学生宿舎の整備などです。

5.1 学生交流会館の建設
 学生交流会館の設置については、図面に示すような建築の予備設計が進んでおり、平成19年度に建設着工の予定で企画されています。19年10月頃の完成予定です。詳細は未定ですが、開所式を行う予定です。
 開学30周年記念事業説明書(30周年ホームページ参照)にありますように、学生交流会館には、開学30周年記念事業を記念し、記念銘盤も設置される予定です。

5・2 博士学生に対する支援
 博士後期課程学生特別支援制度が動き始めました。2種類の仕組みがあり、大学特別支援と教員特別支援の二つです。教員特別支援は、平成18年12月から開始され、大学特別支援は平成19年4月から開始されます。
 詳細は、本学ホームページの応募要領をご覧ください。

5・3 経済的に恵まれない学生に対する支援、勉学奨励等のための支援
 経済的に恵まれない学生に対する支援、海外実務訓練、あるいは、勉学の奨励のための学生支援についても現在検討中です。

〔6〕開学30周年記念事業は、21年3月まで継続します。
 これからも、皆様のご理解、ご支援のほどよろしくお願いします。

 開学30周年記念事業に対するお問いあわせは、開学30周年記念事業推進室(tut30th@office.tut.ac.jp)、共同研究などの産官学連携につきましては(gaibu@office.tut.ac.jp)までお寄せください。




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先端フォトニック情報メモリリサーチセンター/電気・電子工学系 教授 井上 光輝
 
 
 

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集合写真
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図1 研究開発コア
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 CDやDVDといった光情報記録媒体(メモリ)の二世代先である第四世代の主役になると予測されている光メモリを中心としたフォトニクスの新しい産学連携方式による国際研究拠点が「先端フォトニック情報メモリリサーチセンター」として2006年11月に発足しました。
 本研究センターで開発を目的としている光メモリは、記憶容量が現在のDVD等に比べて1000倍以上になります。本センターには、光メモリ及びそれに関連した研究に携わっている国内外の大学教員さらに企業の最先端の研究者・技術者の方々にも客員教授・客員助教授として参画していただいています。これら世界的な活動を通して本学生まれの技術を広く世界に発信していくことを目指しています。さらに、20年後に実用化が期待される超光情報メモリの開発も文部科学省のプロジェクトとして推進しています。また、これらの研究・開発活動を通して日本の将来に資する人材を育成することにも重点を置いたセンター運営を行なっています。
 
 センター内の多岐にわたる研究・開発を効率的に扱うために、図1と図2に示すように、センター内をホログラムメモリ、記録材料・メディア及び周辺技術の3つの領域(コア)に分け、それぞれのコアにおいて関連する研究者・技術者が密接に協力して研究・開発を進められる体制となっています。「ホログラムメモリコア」では情報を面(二次元)ではなく立体的(三次元)に記録するメモリやシステム、「記録材料・メディアコア」ではホログラムメモリに使用する材料、「周辺技術コア」では光メモリに関連する光半導体デバイスや材料及びソフト等の研究・開発を推進しています。2007年4月には一層の効率化を図るために周辺技術コアからソフト関連を分離し、光メモリのコンテンツ等の研究を強化する予定です。

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図2 センター構成
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センター長,副センター長紹介
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 研究・開発は各コアで進められていますが、各コア間の連絡を密にし、常に新しい情報を取り入れることを目的として、最先端分野で活躍する世界中の研究者・技術者を招聘して、定例研究会やトピカル懇話会などを開催しています。これらを通して、常にセンター内の情報を最先端のものにアップデートすると共に、各メンバ間の連絡、情報交換が滞ることのないようにしています。さらに、本センターの形態やメンバは固定ではなく、センター活動への参加は常に外に向かって開かれており、共同研究、委託研究、研究会などに、企業の皆さんが随時参加できる体制となっています。
 このように先端フォトニック情報メモリリサーチセンターが、従来に例を見ない強力な情報発信基地として、物創りの盛んなここ豊橋の地で活動を開始いたしました。皆様のご支援をよろしくお願いいたします。
 
 
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豊橋技科大物語 誘致編① ~まぼろしの「豊橋高専」 JCが大学誘致に立ち上がる~/10月2日付東日新聞
 
 
 

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 平成18年10月2日から10月12日にかけて、東日新聞において、開学30周年特集として連載された豊橋技術科学大学設置経緯の記事を、東日新聞社様のご厚意によりこのたび「天伯」に転載することができました。
 このシリーズは9回の誘致編本編と2回の補足編として掲載されたものです。今号から平成19年度にかけて4回程度に分けてお届けいたしますのでご愛読ください。
  ◇豊橋技科大(豊橋技術科学大学)物語~誘致編①◇ ~まぼろしの「豊橋高専」 JCが大学誘致に立ち上がる~

 豊橋技術科学大学が今年、創立30周年を迎えた。戦前まで大学のなかった豊橋市にとって大学誘致は悲願だった。終戦直後に愛知大学ができたものの文科系大学であり、理工科系大学が望まれた。そうした地域の声を吸い上げた豊橋青年会議所が地道な運動を展開していた最中、国家事業として新構想大学の話が持ち上がった。60年安保闘争以降、大学紛争が激化し、70(昭和45)年の批准に向けて大学の存在そのものが問われた時期だった。豊橋技科大誘致は戦後最大のプロジェクトになった。

 昭和30年代中ごろ、国を挙げた工業化に伴い、科学技術を身につけた中堅技術者が必要となり、国立高等専門学校(高専)が全国各都道府県に設置されることになった。愛知県では、名古屋市に次ぐ県下第2の都市である豊橋市と、新興都市・豊田市(昭和34年に改名)とが綱引きを繰り広げたが、トヨタ自動車のあった豊田市に軍配が上がり、1963(昭和38)年に豊田高等専門学校が設置された。

 豊田か豊橋か、まだ綱引きが行われていたころのことだ。桑原幹根知事が県議会で、高専をどこに設置するかとの質問に対し、「豊田市」と言うべきところを「豊橋市」と言い間違えて答弁してしまった。終了後、豊橋選出の県会議員が桑原知事を取り囲み、「知事さん、ありがとうございました」。
 皮肉を言ったのだった。関係者の多くが豊田市に決まっているのを知っていた。訂正に対し、豊橋選出の県議らはただでは引き下がらなかった。桑原知事は「次は豊橋だ。豊橋には何らの形で考える」と約束した。
 県議経験があり、桑原知事と親しかった河合陸郎市長が側近に、よくこの話をした。

 河合市長は60(昭和35)年、市長に当選すると同時に、岐阜にいた青木茂氏を助役に迎えた。そのころすでに2期目を迎え、各所で「青木アドバルーン」を打ち上げるようになっていた。浜松の成長ぶりをよく引き合いに出し、市職員はじめ地域や財界を鼓舞した。
 「戦後横一線でスタートした豊橋と浜松に大きな開きができた。ヤマハ、カワイ、ホンダ、スズキなど、工業力の違いだ。その根底にある浜松工専(現静大工学部)の力が大きい」
 青木助役は、各所で工科大学の必要性を訴えた。


 豊田高専が設置された63年に東三河工業整備特別地域に指定され、翌64年には三河港が重要港湾に指定された。同じ年に東海道新幹線が開通し、東京までの時間的距離が縮まった。豊川用水も完成間近となり、東三河全体が勢いづいた。
 その年に豊橋青年会議所が行った市民アンケートの中で、理工科系大学の設置を望む意見の多いことが分かった。豊田高専の余波もあった。
 豊橋JCはその後、理工科系大学または専門学校の誘致・設立運動を継続した。66(昭和41)年、豊橋JCの呼びかけで東三河4JCが大掛かりな市民アンケート「若い人の東三河の町づくり」を行った。その結果、地域ニーズ(公共施設)として、最も高かった「下水道」に次いで、2番目に「理工科大学」が挙がった。特に豊橋市域では下水道を押さえてトップだった。理工科系大学の誘致が豊橋JCの活動目標になった。

 69(昭和44)年、豊橋JCの理事長に小坂英一氏(故人、のちに東三河開発懇話会専務理事、東海日日新聞社社長)が就いた。大学問題を最重要課題として位置付け、改めて市民アンケート「新しい大学設立について」を行った。自然科学(理工科)系大学の設立希望が61%に達し、3年前よりさらに高まっていることを確かめた。
 その年11月の例会で、「豊橋を新しい頭脳産業都市にしよう」と題し講演会を行った。講師に永井道雄・東工大教授(のちに文部大臣)らを招き、理工科系大学設立運動の正しさを確認し合った。地域開発と結びついた大学はじめ市民参加、情報工学、国際化など8項目にわたる提言をまとめ、内外に向かってアピールした。
(山崎祐一)
 
 
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豊橋技科大物語 誘致編② ~豊橋JCが画期的提言 豊田高専校長の目にとまる~/10月3日付東日新聞
 
 
 

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 62(昭和37)年から5年間かけて全国55カ所に高専が設置されたが、時代が進むにつれて大学進学熱が高まり、高専卒業生の中に大学進学を希望する者が数多く現れるようになった。
 ところが、高専は就学年数的に言って短大(大学2年)の扱いであり、大学3年への編入が望まれたものの、多くの国立大学でほんの数人しか受け入れなかった。国立高等専門学校協会が中心となって受け入れ枠の拡大を求めたが、履修科目や単位問題が障害となって進展せず、別の視点から、新構想大学「大学院大学」の創設が議論されるようになった。
  豊田高専をめぐり、桑原知事との間で約束を交わしていた河合陸郎市長はいち早くこの情報をキャッチし、推移を見守っていた。
 69(昭和44)年度予算説明で、市議会に対し、工科系大学誘致について含みのある答弁を行い、自信の一端をのぞかせた。
 青木茂助役も準備に余念はなかった。豊橋JCの理工科系大学設置運動に対しても温かい視線を注ぎ、「提言は大きければ大きいほどいい」と励ました。
 70(昭和45)年、豊橋JC理事長に大塚佳和氏(故人、のちに武蔵精密社長)が就いた。前任の小坂英一氏(当時、日本JC指導力開発委員長)に続いて大学誘致問題に積極的に取り組んだ。社会開発委員会を窓口に、一大誘致運動を展開した。

 鈴木国雄氏(のちに光陽社長)が委員長を務めた。「大塚さんの命を受け、精鋭メンバーを募って進めました。毎週あるいは隔週ペースで講師を呼んで、勉強会を重ねました。政治家から学者、経済人まで多彩。反響の大きさに私たちの方が驚いたぐらいでした」。
 勉強会の成果をもとにその年8月、提言書「東三河の新しい頭脳~新構想大学設立への提言~」をまとめた。それまでの市民アンケート調査結果を精査して必要性を強調し、東三河地域にとっての意義を訴えた。都市開発(まちづくり)の観点を入れ、各界の意見を載せて集約するとともに、どんな大学を設立したらよいか、「開かれた理想の大学像」を提案し、完成予想(イメージ)図まで添えた。




 具体的な規模を算出し、「単科大学の場合、敷地10万坪(33平方㌔㍍)」とし、候補地として3カ所を挙げた。豊橋市が高専の誘致運動を行った際、候補地の1つとした二川地区(農林省苗圃園)▽東名豊川ICから近い本宮山麓▽田畑が広がる加茂地区。このうち加茂地区を最適地として推奨した。

 反響が大きかったことから2000部印刷した。意気揚揚として上京。何冊が持参し、文部省に陳情した。
 「けんもほろろでした。バカげた話だ。もう2度と来るなとまで言われ、さんざんでした」と鈴木委員長。
 70年は日米安保条約の批准を迎え、東大安田講堂事件が起きるなど大学紛争がまん延し、大学不要論が広まった時代だった。頭を痛めていた文部省に「新しい大学設置を」と陳情したわけであり、一蹴されたのも無理からぬ話だった。

 それでも鈴木委員長はじめ豊橋JCメンバーはめげなかった。市民集会を開いて、大学誘致の必要性を訴えた。名古屋で開かれた日本JC名古屋全国大会に持参し、大量に配布した。
 鈴木委員長は「その1冊が豊田高専の榊米一郎校長の目にとまりましてね、新たな展開が始まったんです。翌71年ですが、榊校長はじめ高専校長会のみなさんが豊橋を訪れてくれ、候補地などを視察し、意見を交換しました。ひょっとすると、大学ができるかも知れないぞ。そう感したことを覚えています」と振り返る。
(山崎祐一)
 
 
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豊橋技科大物語 誘致編③ ~市が水面下で動き出す 提言発表で誘致機運上昇~/10月4日付東日新聞
 
 
 

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 豊橋JCが提言「東三河の新しい頭脳」を発表した直後のことだった。70年(昭和45)年10月、豊橋市で人事異動があった。
 河川土木課長補佐だった松下龍也氏が都市開発部計画課長に抜擢された。河合陸郎市長から大学誘致のため候補地を図面化するように特命を受けた。核となる市有地がある地域を中心に神野新田町、伊古部(表浜海岸沿い)、吉祥・嵩山、のちに天伯の4地区を挙げ、図面に落とし込む作業を進めた。

 「河合市長から誰にも言うなよと言われ、人目に触れぬよう、ひとりで作業したもんです。図面は市長室のロッカーに入れておき、時折、手直したりしてね。ある日、手直しのために図面を持ち出し作業していると、河合市長がどこへやったと言って心配するぐらい真剣でした」。
   松下氏(78)=東海興業会長=はこう話す。
 同時に、教育委員会庶務課管理係長だった中村剛氏を総務部広報課に移し、半年後の71年4月、広報課長補佐兼秘書係長に昇級させた。大学誘致のための人事だった。河合市長から直接指令を受け、走り回るのが任務だった。
 河合市長―青木助役体制は、大別して、河合市長が県議経験などを生かして県関係と地元対策、青木助役が東京での「顔」を生かして霞ヶ関を担当した。秘書の中村氏が河合市長番、都市開発の松下氏が青木助役番だった。

 「河合市長は本当に真剣だった。豊橋に来ると言い切り、候補地探しを急いだが、なかなか本命を絞り込めず、随分苦労したもんだ。そんな最中に大学院大学の話が本決まりとなり、具体化してきたんだ」
 中村氏はこう話し、水面下で飛び回った思い出を語る。
 一方、松下氏は早い段階で、県から情報を仕入れたことを明かす。

 「当時、企画部に安井俊夫主査(のちに教育長)がいてね、この方面に明るかった。今いろいろと議論しているけれど、法案は必ず通るよ、ってね。勇んで役所に戻り、河合市長に報告すると、『ああ知っとるよ』と素っ気無かったのを覚えているよ」
 69(昭和44)年には国立高等専門学校協会(国専協)と文部省との間で新構想大学の協議が進み、一部の関係者に伝わっていた。河合市長―青木助役体制の下、新構想大学・大学院大学の誘致に向けて、極秘に動き出していた。青木助役にとっても悲願であり、力が入った。
 一方、豊橋JCが提言「東三河の新しい頭脳」を発表したことで、理工科系大学の誘致気運が急上昇した。河合市長や青木助役が気にかけたのはもちろんだが、豊橋市教委の長谷川博彦教育長も積極論者のひとりだった。官民一体となった運動となって広がり、それに「学」まで加わるようになった。




 中心になって提言をまとめた鈴木国雄・社会開発委員長は「発表会をオープン間もない豊橋グランドホテルでやったんでずが、そりゃすごかったですよ。ひとつはマスコミ取材の多さ。もうひとつはホテルの外で、愛大生らが『(工科)大学誘致反対』を訴えて、騒々しかったね。当時、理念に掲げた゛産学(官)協同゛なんて、まかりならんという時代でした。それでも信念に基づいて運動を進めました。何回も市民アンケート調査を行い、工科系大学の誘致は地域ニーズだということを確信していたから、少しも揺らぐことはありませんでした」と振り返る。
 新構想大学が具体化する中で、「豊橋」の名は定着していった。豊橋JCを中心とした誘致運動がマスコミに大きく取り上げられるようになったことで、「豊橋に新設大学を」が既成事実化した。提言が豊田高専の榊米一郎校長の目にとまり、高専関係者の現場視察を受けるようになったことも大きく、転機の潮目にさしかかった。  国立高等専門学校協会(国専協)は高専卒業生の受け皿づくりため特別委員会を設けて新構想大学プランを練ってきたが、72年初めに「技術科学大学院構想」を打ち出した。これに呼応し、豊橋JCは大学問題特別委員会を発足させ、一層誘致運動に力を入れるようになった。
(山崎祐一)
 
 
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国立大学法人 豊橋技術科学大学