豊橋技術科学大学広報誌 天伯
 
大学探訪

豊橋技術科学大学の様子をのぞいてみましょう。



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新任教員紹介

 
 
 
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氏 名:河内 岳大
所 属:物質工学系
職 名:助手

 昨年10月16日付で物質工学系助手として着任いたしました。
 久留米高専卒業後、大阪大学で学位を取得した後、科学技術振興機構八島超構造らせん高分子プロジェクトにて3年半ほど博士研究員として勤務しておりました。私の専門分野は高分子化学で、化学構造や分子量、立体構造などを精密に制御した高分子の合成を行ってまいりました。
 今後はDNAに代表される生体分子のように、様々な機能を有する合成高分子の開発に取り組みたいと考えております。また、研究・教育を通じまして、本学の更なる発展に微力ながら貢献したいと思っております。
 どうぞ宜しくお願い致します。

 
 
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新任教員紹介
 
 
 
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氏 名:真田 靖士
所 属:建設工学系
職 名:助教授


 平成18年12月に建設工学系の助教授に着任しました。
 学生、その後職員と、丁度10年ほど東京大学に在籍しておりましたが、出身は三重県ですので、久しぶりに地元(と申しましても、あと100km程ありますが)に戻ってきたことになります。
 着任日が本学の3学期初日でありました関係で、右も左もわからぬままに授業が始まり、戸惑いながらの勤務でしたが、数ヶ月が経ち漸く落ち着いてきたところです。専門は最近とみに評判が悪い建築構造学ですが、ほとんどの同業者の方々と同様"まじめに"取り組んでまいりました。
 東海地方は巨大地震に見舞われる危険性が高い土地柄ですので、微力ながらも私の経験を活かすことができれば幸いです。

 
 
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【身近な技術と科学】 “動く金属-形状記憶合金の不思議”/生産システム工学系 助教授 土谷 浩一
 
 
 


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movie1

ムービー1
 形状記憶効果
(クリックすると再生します。)


movie2

ムービー2
 形状記憶合金の顕微鏡観察.
室温から-20℃くらいまで冷却しながら観察。
縞状の模様がマルテンサイト変態した領域である。
温度が上がると元に戻る。
(クリックすると再生します。)


 まずはムービー1をご覧ください。この針金は"ニチノール"と呼ばれるチタンとニッケルがほぼ半々混ざってできている形状記憶合金です。曲げた後にヘアードライヤーで加熱すると、もとのまっすぐな形に戻ります(形状記憶効果)。つまりこの針金は直線形状を記憶しているという訳です。この合金のニッケルの割合をほんの少し増やしてやると、今度は曲げても手をはなすとすぐ元に戻る様になります。ちょっと昔の携帯電話についていたアンテナ、"形状記憶めがね"のフレームはニッケルの少し多いニチノールでできていたのです。金属なのにゴムの様によくしなるこの性質は超弾性と呼ばれます。

 形状記憶合金の性質、形状記憶効果と超弾性はどちらも、温度などの外部の環境が変わると原子がその配列(結晶構造)を変える"相変態"という現象に起因しています。普通、金属の様な固体の中で結晶構造が変わるには高い温度で長い時間をかける必要があるのですが、形状記憶合金の相変態は"あっ"という間に起こります。その理由は図1に示した様に温度を下げた時に材料の中の原子がお互いにちょっとだけ場所をずらして結晶構造を変えるからです。特に構造変化がせん断変形的で体積変化が小さく、繰り返し可能という特徴があります。この様な相変態をマルテンサイト変態と呼びます。ムービー2は冷却と加熱でマルテンサイト変態が可逆的に起こる様子を顕微鏡で観察したものです。

 さて、形状記憶効果と超弾性のメカニズムをそれぞれ図2図3に示します。形状記憶効果では低温の状態(マルテンサイト相)で変形し、温度を上げると元の結晶構造に変化する時に形状が回復します。超弾性はマルテンサイト変態が起こる温度よりも高い温度で力を加えると応力誘起マルテンサイト変態が起こり変形しますが、力を取り除くとすぐ元の結晶構造になるので形も戻ります。つまり形状記憶効果も超弾性も原子の並び方の変化がそのまま材料の形の変化になって現れるという現象なのです。

 形状回復時には大きな力がでるのでいろいろな仕事をさせることができ、モーターの代わりとしてコーヒーメーカーから新幹線まで様々な所に使われています[
]。我々はこの合金をナノ結晶化したり、ナノスケールの析出物を分散させて材料強度を上げることで形状回復力を向上させるための研究をしています。

 また、最近は血管内手術用のガイドワイヤー、ステントなどの医療用途への応用が急速に進んでいます。ムービー3は積層圧延法を利用して作ったニチノールの箔で作製したステントです。このステントはOxford大学で考案されたもので、折り紙の技術を応用して畳んでありますが、加熱すると形状記憶効果で拡張します。

 さてこの不思議な金属に興味を持って頂けたでしょうか?よろしかったら研究室のホームページもご覧ください。実際に触れてみたくなった場合はインターネット販売などでも買うことができますので是非試して見て下さい。



3-2

図1 マルテンサイト変態
(クリックすると拡大表示します。)


movie3

ムービー3
 形状記憶合金フォイルで作製した折り紙ステント。
カテーテルを模した細いチューブから
血管を模した太いチューブ内に押し出し,
加熱するとゆっくり展開する。
(クリックすると再生します。)


3-3


図2 形状記憶効果
(クリックすると拡大表示します。)


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図3 超弾性
(クリックすると拡大表示します。)

 
 
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【退職教員より】 豊橋からアセアンへ/工学教育国際協力センター 名誉教授 堤 和男
 
 
 




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 2006年3月末で通算38年間の大学人生活がようやく終わった。
 大学紛争真只中の1968年助手に任命された当時六本木にあった東京大学生産技術研究所に赴任したが、そこでも防衛庁が近くにあったため連日のデモが続いていた。それから13年後に箱根の山を越えて豊橋に移ってきた。物質工学系での15年間の教育研究生活を送った後、6年間の副学長職を務め,最後の4年間は工学教育国際協力研究センター(ICCEED)で国際協力の業務にほぼ専念し、結局四半世紀を豊橋で過ごした事になる。

 高専からの1期生が修士2年生に進学した春に赴任した1981年の豊橋技術科学大学は実質4年目で、学内は新設大学特有の活気と教員と学生とが連携して大学を盛り上げる熱気に溢れていたと思う。伝統と名声に守られ安穏としていた大学から、最も若く、新構想で伝統がまるで無い、しかし何となく周囲から期待され、華麗なる誤解が有ったにしろ結構な評価を受けていた大学への転身は決して不満を持つものでは無かった。殆どの学生諸君は元気だったし、当時の高専の置かれていた立場、そして高専生への世間の暖かい評価をそのまま受けてきた1960年代生まれの若者は教育し共に研究する相手として手応えのある諸君が多かった。教員には勿論権力指向者もいるし純粋に学問をする人もいたが、様々な前歴を有す教員集団との付き合いも新鮮であった。新しい大学への共通の夢を抱いていたのであろう。

 研究は「固体表面」の吸着・付着現象を結局終生行った。構造の中に分子サイズの細孔を有す材料および複合材料が対象である。当時は「ナノ」という表現は殆ど無く「細孔への吸着」というような凡そ芸のない表現であったが、大学院時代から40年以上付き合ったわけで最近は資源・環境問題などにも利用されるようになり嬉しい事である。「付着」の研究は30代初めのフランスでの研究がきっかけで30年余になるが、水-油の親和性を高める研究の固体版である。

 中間の6年間は自己評価が難しい。自分も含めて「我が儘」「非常識」な面を見せる教員との管理側の一員としてのつきあいは愉快なことばかりでは無かった。当時はまた「改革」「合併」「法人化」の問題が一度に押し寄せた時期でもあった。ただ、副学長としては自由な活動が許されたので、自分の構想の一部は実現できたように思う。しかし、最後には「帯状疱疹」「アテローマ」という病魔まで押し寄せてきた。疲労とストレスが病気を呼んだ最初の経験であった。この6年間に殆ど学生諸君と接することが出来なかったことが悔やまれる。

 国際協力への最初の関わりは1992年に遡る。当時、大学は対インドネシアのJICAプロジェクトに組織的対応を開始していた。故佐々木学長から国内委員をやれと言われ、何も分からないままに引き受けいきなり調査団でインドネシアに派遣された。これは文字通りカルチャーショックだった。同行した他大学のメンバーの能力・行動力・パワーに呆然とし、現地の大学環境・生活環境・人々にも驚くことが多かった。一方で、マラッカ海峡を初めて見た時には、昔父親がこの辺りで戦争をしていた事を思いある種の感慨を覚えた。その後、成り行きからタイの2つのプロジェクトとアフリカのプロジェクトにも関係し、特に副学長時代は時間のやりくりに苦労があったが管理運営の仕事の気晴らしと言っては語弊があるがJICAの仕事はリフレッシュになっていた。
   2001年に設置されたICCEEDに翌年4月に移ってからは本務が国際協力業務となりアセアン工学系高等教育ネットワーク(AUN/SEED-Net/JICA)プロジェクトに深い関わりを持つようになった。これはアセアン10ヶ国のトップ19大学と、日本からは11大学が支援大学として参画する工学系人材育成プロジェクトである。核になるのは参加大学の若手教員または新卒業生の上位学位取得であり、域内留学による修士号または博士号取得と日本留学による博士号取得がある。人種、文化、言語、宗教などが異なる広域をカバーしたプロジェクトだが、EUのような形のアセアン統一は政治的・経済的には遠い話であろうが、アカデミックの世界ではこのプロジェクトがトリガーになりつつあることが予測される。今は本部のあるバンコックを拠点にこのプロジェクトの運営業務に従事している。アセアン各国で大学院学生に接するが、陳腐な表現ではあるが目の輝きが素晴らしい。自らが学べることに喜びを感じ、トップ大学のエリートらしく国の将来を背負って立とうとする気概に溢れた学生が多い。現在19大学からの300名近い大学院学生がアセアン5ヶ国10大学と日本の支援大学で学んでいるが、豊橋で最後には出来なかった学生との別な付き合いが生じ、彼(女)らが将来アセアン各国のリーダーとして活躍する日を夢見ている。

 四半世紀に亘る豊橋の生活ではあったが、やや毛色の変わった生活をすることが出来たためにその長さはあまり認識しない。大学人として教育研究生活にもっと力を割くべきだったかと思うこともあるが別に後悔はない。
 世界はまだまだ広いし、世界では高等教育を受けることに無上の喜びを感じる人が大部分であることを若い人達は理解して欲しい。ここ数年間は外から見ているだけだが、世間ばかりか大学までも「弱肉強食」になりつつある日本は正常とは言えない。

追記:以上まで記して提出しようとしたら、タイにクーデターが起こった。9月19日タイ時間夜11時半過ぎにJICAから電話で連絡があり、戒厳令、外出禁止令が出たとのこと。しかし、21日昼にはJICAの禁止令は解け、車で1時間位の大学での会議に出席したが、街は平穏そのもので不謹慎なが ら拍子抜けした。日本での総裁交代と共に世界のトップニュースになったようだが、平和ぼけの日本との彼我の差を痛感する。
(AUN/SEED-Net/JICAプロジェクト・チーフアドバイザー)

 
 
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【退職教員より】 退職の弁/建設工学系 名誉教授 角 徹三
 
 
 




5-1

 


 豊橋技術科学大学発足から1年経過した1979年春、D棟新築工事がようやく完成し、その6,7,8階への引越し作業の日に初めて本学に顔を出したように記憶しています。本学就任前は明石高専に9年(非常勤5年後引き続き常勤4年)在職していたこともあり、向学心止まぬ高専生のための新構想大学ということを意識して、かなりの思い入れを持って学生の教育に当たったつもりです。多少贔屓の引き倒しの感があったかもしれません。早々に二期生(新3年生)の担任と入試委員を仰せつかりました。当時の系会議では物事を決めるさいの参考となる前例が皆無なため、「東工大ではこうした、名大ではああした、京大では・・・」という長閑な議論がしばしばでした。最初の1年は単身赴任だったこともあり、名簿順に学生3~4人ずつを週の初め面談と称して自宅に連れ込み、鍋をつつき杯を酌み交わしたものです。肉と野菜は学生もち、米と酒代は自腹を切りました。残飯であとの2日分の夕食代は浮いたため、ほぼ1年間続いたこの企画は差し引き黒字で決着しました。

 爾来27年間があっという間に過ぎ去り、2006年3月31日をもって定年退職と相成りました。この間いろんなことがありました。気持ちよく研究・教育に専念できる場を与えていただいた豊橋技術科学大学の教職員スタッフ、卒業生をはじめ学業界で知り合った方々に心からお礼を申し上げます。

 ひとつだけ大変悔しかったことは、在任最後の年に明るみになった「耐震偽装事件」です。私の研究対象(鉄筋コンクリート建築構造)に直接関連する事項であっただけに大きなショックを受けました。わが国の建築生産システムの中での構造技術者の役割は意匠屋の無理難題をしっかり受け止め最終的には構造的に安全な建物を完成させるという縁の下の力持ち、人間の臓器で言えば「(物言わぬ)肝臓」のような存在として一般に認識されてきました。私の研究室の卒業生達も、どちらかといえば口下手でこつこつ努力する法令順守タイプが多かったと理解しています。にもかかわらず、現実の事件を目の当たりにして、自分の果たしてきた研究教育に対する貢献度がいかに脆弱なものであったかを思い知らされ、無力感、ひいては一抹の罪悪感にさえ駆られた次第です。
   上司の指示に唯々諾々と盲従してさえいれば責任を取らずに済みます。しかし、そういう人生を選択するのであれば、本学で高い授業料を払って苦労して学士・修士を取る必要はないでしょう。こういう輩には何も言うことはありません。自己の責任で技術的判断を下すことを目指して努力している人、あるいは現に下している人が卒業生のほとんどであると信じています。しかし、そうであればあるほど厳しい試練が待ち受けているのも事実です。グローバル化、規制緩和、公的事業の民間開放等の大義名分のもと経済至上原理が作動し、あらゆる分野に圧力と誘惑の罠が張り巡らされています。職場で孤立することなく技術者としての倫理とプライドを堅持することは決して生易しいことではありません。

 ではどうすればよいか。残念ながら、私には答えを示すことができません。私自身がもがき苦しんでいることなのです。ただいえることは、専門馬鹿のままでは駄目で社会現象にも関心を持つこと、一人ぼっちではだめで仲間を作ることです。少なくともこの二つだけは大切にしていく必要があるように思います。仲間作りの後ろ盾になるのがまさに豊橋技術科学大学同窓会が果たさねばならない最重要課題だと思います。今回の事件を省みて今卒業生諸君に私から言えることは以上で精一杯というところです。
 法人化、研究費削減、定員削減、再編成等日本の国立大学にとって黒船以来の難局を迎えている最中に退職することは、敵前逃亡の感もあり心苦しい限りですが、さりとて足手まといになってもいけないわけで、丁度潮時と自分に言い聞かせています。

 最後に、教職員各位の益々のご活躍を祈念するとともに、種々の制度改変は是としつつも、真理の探究と自由闊達さを保障する場としての本学の存在価値だけは是非貫き通して戴きたいことを念じて拙文を閉じさせて頂きます。

 
 
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【退職教員より】 老兵は消えます/知識情報工学系 名誉教授 阿部 英次
 
 
 




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 卒業生の皆さん、お元気ですか?
 私は本年3月末日に定年退職いたしました。昭和53年4月に物質工学系の助教授として着任以来、28年間の豊橋生活でした。昭和57年には分析計測センターへ移り、平成2年からは知識情報工学系に所属していました。
 この間、皆様方から頂きました多くのご温情、ご支援に厚く御礼申し上げます。本来ならば、親しくお目にかかって申し上げたいところだったのですが、中々思うに任せませんので取り敢えずこの紙面を借りて失礼致します。

 退職後の生活をどこで過ごすかにつきましては、色々考えました。故郷の秋田県大館市は親類縁者も多いのですが、如何せん日本海側で冬になると曇天続きで、寒さも厳しく温暖な豊橋から年寄りが移り住むのには不向きだろうとやめました。また、これまでの人生の中の28年間と言う最も長い期間を過ごした豊橋については住み心地も悪くなく、大いに悩みましたが、やはり、東北人である自分にとっては異国だったと言う結論になりました。と言うことで、大学入学以来17年間を過ごし、その間結婚し3人の息子たちを儲けた、いわば人生の中で最も実りの多かった仙台を終の棲家と定めました。

 晴耕雨読と言う言葉がありますが、耕すほどの畑もありませんので、専ら「読」に専念してのんびり暮らしたいと考えておりますが、果たしてどうなります事やら。

 最後に一言「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」*。

  *原文は昔の占領軍最高司令官マッカサー元帥が
議会で行った退任演説で引用した言葉

 Old soldiers never die, they just fade away.

 これを最終講義の際引用したところ、続きがあるよと
卒業生の一人からフォロウがありました。

 Young soldiers wish they'd fade away.
だそうです。

また、古人曰く「去者日以疎、生者日以親」
では皆様御機嫌よう、さようなら。




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【退職教員より】 退職後の近況/エコロジー工学系 教授 鷲田 伸明
 
 
 

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 豊橋技術科学大学には平成16年4月からお世話になり、本年3月に停年退職いたしました。2年間と短い期間でありましたが、皆様のおかげで気持ちの良い技科大での生活をエンジョイできましたことをあらためて御礼申し上げます。
 4月からは理化学研究所・鈴木化学反応研究室の研究嘱託として理研にオフィスを持ち、物理化学の仕事を続けております。若いポスト・ドクの人達のセミナーなどに参加していると、フェムト秒現象、テラヘルツ分光、X線レーザーなどが若者の物理化学のキーワードのようです。化学反応のフェムト秒現象では実験と理論(量子化学計算)が一体化していて、片方だけでは成り立たなくなっています。
   4月からのもう一つの仕事として環境省の持っている競争的資金(地球環境研究総合推進費、環境技術開発等推進費、地球温暖化対策技術開発事業、廃棄物処理等科学研究費補助金の4本、総額約82億円)のプログラム・ディレクター(PD)をしております。8月から9月は一番忙しい時期で、プロジェクトの中間評価に加えてこれから全省庁の競争的資金(例えば文科省であれば科研費補助金、21世紀COE,戦略的創造研究推進事業などもこれに入ります。総額4700億円ある)の仕組みおよび成果についての総合科学会議による評価(正式には優先順位付けといい、SABCの優先順位が付く)が始まります。
 このヒヤリングでS評価をもらうと財務省の指導で来年度予算が増額され、B評価だと減額され、Cをもらうとアウトです。9月は全競争的資金に対してヒヤリングがあり、優先順位が決まります。そんなことで、目下PDとしての仕事の正念場を迎えているところです。

 最近は環境研究を取り巻く環境が変りつつあると実感しております。環境に思い入れを持つファンが増えているのは大変結構なのですが、ファンだけで固めて閉鎖的になることは避けなければと思っております。
 技科大の皆様の奮闘を祈っております。
 
 
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国立大学法人 豊橋技術科学大学