◇豊橋技科大物語 誘致編⑧◇
~河合市長から青木市長へ~ 10月11日付 東日新聞
文部省から75(昭和50)年1月、技術科学大学院創設準備運営費並びに事業費が認められたと連絡が入った。長岡と一緒だった。正式に大学院用地として天伯地区36㌶を報告し、「76(昭和51)年10月開学」の方針が示されたため、2月には豊橋市土地開発公社理事会を開いて、天伯用地購入の予算措置を講じた。長年にわたって愛知県知事を務めた桑原幹根氏が引退し、仲谷義明氏が知事となった。
4月、知事交代に合わせるように、河合陸郎市長が引退し、助役の青木茂氏に後を任せた。人事異動で、それまでの国立技術科学大学院設置対策事務局を同院創設対策課に昇格させ、事務局長(企画主幹)だった中村剛氏を課長、用地対策課にいた藤城芳之氏を推進室係主査、佐野阜石氏を推進係に任命した。天伯用地の買収を行うためだった。5月には、市議会から同院創設対策特別委員会を設置した。
藤城氏はお墓の移転に明るく、辞令が出る前から内密に法務局通いを続け登記簿を図面に落とすなど、地道な下調べを行っていた。「秘密裏でしたが、辞令の出る1年ぐらい前から大学誘致の候補地探しに携わっていました。同じ用地対策課にいた大塚健一さんが担当していたんですが、人手が足りないと言うことで、手伝いに借り出されたのが最初でした。当時、文部省には(天伯を)届け出ていたんですが、まだはっきりしていなかったようです。」
敷地はその後の協議を経て少し広げ36㌶になった。豊橋市土地開発公社を窓口に前年暮れから買収に入っており、藤城氏は辞令を受けるなり、用地交渉に当たった。豊川用水の幹線移設と墓地の移転が大きな課題として残っていた。
豊川用水の幹線移設は主に中村剛・創設対策課長が担当して水質資源開発公団との交渉を行った。藤城主査は墓地の移転を担当した。前職で土地区画整理事業を担当し、持ち前のねばり強い交渉能力が評価されていた。
「お墓の移転というのは結構難しく、大金を必要とするんです。特に無縁仏の場合、全国紙に何回か公告を載せなければならず、時間と労力を必要としました。精を抜いて移転し、移転先でまた精を入れるんです。根気のいる仕事でした」
中村課長は「墓地移転が難しかった時の話ですが、河合市長に頼んでお金を出してもらってね。視察名目で役員たちを旅行に連れて行ったりしました。旅行から帰ってきたら、いっぺんに話が進むようになりました。」
中村、藤城、佐野氏の創設対策課3人は、夜討ち朝駆けの毎日を送った。「何しろ期限を切られているんで、やるしかなかった。」と藤城主査。「移転交渉で手間取ったことはありましたが、大学の建設そのものに反対する人はいませんでした。個人的にも工科系大学を誘致すべきだと考えていたので、力が入りました。忙しかったけれど、一番充実していたんじゃないかなあ」。佐野氏は「中村さんに尽きるよ」。
文部省はその年8月、それまでの「技術科学大学院」を「技術科学大学」と改称した。大学院の設置には学校教育法の改正が必要であり、一般大学との関係などで困難だった。その結果、高専卒業生の受け入れだけでなく、工業高校を主体とした高卒生の受け入れも行えるようになった。
豊橋から豊田高専へ通っている学生は数少なかった。「せっかく豊橋に大学ができるんだから、地元から入れるようにしたい」と考えていた中村課長は早速上京した。河合市長の指示で衆議院議員・河野洋平氏を訪ね、思いを伝えた。「実現しましたよ。募集300人のうち60人を高校から取ってくれることになりました。私の息子も大学進学の時期でしたから、気づいたんです。一番うれしかったことでした」。
前年夏の参議院選挙で、総合開発機構社長の藤川一秋氏が初当選を果たしていた。年末が近づくと、新年度予算の厳しさが伝えられるようになり、上村、村田両代議士らを先頭に文部省から大蔵省、自民党本部などを陳情行脚して回った。商工会議所やJCも加わっていた。またしても年末、それも12月29日の深夜に予算の復活が決まった。全市挙げた陳情のたまものだった。
(山崎祐一) |