豊橋技術科学大学広報誌 天伯
 
特集

開学30周年 ~確かな礎から未来へ~

 ■開学30周年記念
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先端農業・バイオリサーチセンターの活動について/センター長 エコロジー工学系 教授 平石 明
 
 
 


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図1.センターの組織・構成

  先端農業・バイオリサーチセンター(以下センター)は、本学創立30周年の記念事業の一環として2006年10月に設置されました。本学は工学系単科大学として産業界との強い結びつきの中で高水準の研究教育活動を行ってきましたが、一方では日本有数の生産高を誇る農産地域に位置するという地域特性を生かした取り組みも望まれてきました。センターの目的は、このような本学が置かれている地域環境に鑑みて、地元自治体、農業関連研究機関、農業高校、食農産業界、さらには一般市民などとの連携の下に、未来指向の食農産業クラスターとエコライフの構築に向けた教育研究活動拠点を形成するということにあります。本学は従来、農産業分野そのものにおいては必ずしも専門的な体制を備えてきたものではありませんが、農業分野に資すると期待される様々な要素技術や知的情報を有し、人材も豊富です。地域連携とともに各専門分野に所属する教員が分野を超えた横の繋がりを強固にし、異分野の要素技術と人的資源を活用することによって、従来の常識にとらわれない、先端的農業技術や食農産業システムを創り出すことが可能ではないかと考えられます。
 センターは寄附講座と研究コアとよぶ連携研究室とから構成されています。これはセンターとして特別の建物があるわけではなく、既存の学科に所属する教員が横断的に協力し合いながら連携研究室を成し、リサーチセンターとして形作っているものです。具体的な研究組織としては、様々な分野の教員を配置した六つの研究コアがあります(図1参照)。すなわち、センサ・計測・制御・バイオの要素技術部門と農環境・未来環境の農環境システム部門とがあります。これらの研究コアで、今ある様々な研究シーズから農業や関連分野に応用可能なものを選択し、目標に向かって研究を展開しています。たとえば、本学は集積回路の設計から製作、応用までできる先端的施設を持っており、この機能を利用して農業.バイオ分野に生かせるセンシング技術を研究開発しています。このようなセンシング技術の活用によって、リアルタイムでの作物や土壌の適切な管理、家畜の健康管理などが可能になり、作物の飛躍的生産向上にも繋がると期待されます。
 寄附講座は地元の5信金から資金的援助をいただいて設置されたセンターの核となるべき研究組織で、「しんきん食農技術科学講座」という名称で2007年4月から本格的に活動を開始しました。寄附講座には学外から招聘した農業・環境分野専門の特任教授や客員教授を配置しています。これによってセンターは、寄附講座のリーダーシップの下に、各研究コアや外部機関とも有機的に連携しながら研究開発の進展を図って行く体制ができ上がりました。寄附講座では農業、土壌肥料学分野そのものにおける本格的研究も開始しています。そのための圃場も大学構内に作りました(図2)。さらに、学生および食農関連産業、農業分野の技術者を対象とする定期的な寄附講座セミナーを開催しながら、教育・人材養成にも力を注いでおります。
 センターの活動はまだ緒についたばかりではありますが、確実な一歩を踏み出し、これからの成果が期待されます。これからの様々な組織・機関との連携を通じての皆様の益々のご協力とご支援をお願いしたい所存です。

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図2.圃場からみた技科大建物の遠景(上)

圃場での実験の様子(下)

 
 
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豊橋技科大物語 誘致編⑦ 建設地、天伯に決まる/10月9日付 東日新聞
 
 
 

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  ◇豊橋技科大物語 誘致編⑦◇ 
   ~建設地、天伯に決まる~ 10月9日付 東日新聞


 豊橋市が74(昭和49)年2月に「国立技術科学大学大学院設置対策会議」を発足させ、事務局長に中村剛・秘書課企画主幹を充てたのに続いて、市議会は3月に「国立技術科学大学院創設対策協議会」を設置した。建設地の本格的な絞り込みが始まり、文部省や愛知県、地元との調整に追われた。
 4月(新年度)になると、東京工業大学に「技術科学大学院創設準備室」が設けられた。建設地の絞り込みに拍車がかかった。秘書課企画主幹に昇格し、国立技術科学大学院設置対策(会議)事務局長となった中村剛氏は多忙を極めた。
 建設候補地として、伊古部、天伯、神野新田、吉祥・嵩山の4カ所が挙げられていた。このほか豊橋JCが提案した賀茂地区なども話題になったが、用地買収が難しいなどの点で取り上げてもらえず、吉祥・嵩山地区も頭上を高圧線が通っており、山奥過ぎるなどの理由で除外された。
 その結果、伊古部地区57㌶、天伯地区33㌶、神野新田地区41㌶の3カ所を候補地として決め、文部省に報告した。
 文部省の候補地視察は毎週のように続き、愛知県を交えて3者協議が持たれた。
 6月中旬、青木茂助役が文部省の安養寺審議官らを連れて、現地を案内した。
 「最初ね、東名高速の真ん中にある柿畑を見せて、どうだと言ったら、こんな山奥じゃ困ると言ったんだ。次に太平洋に臨む海岸に連れて行って、ここにすればボート場を造ってやるぞと言ったんだ。そうしたらこんな遠いところじゃ困ると言うんだ。それで帰りに天伯に寄ったら、ここがいいと言うんだよ。青木さん、一番いいところを後回しにして、あんたは根性が悪いねって。何を言うかって言い返してやったがね。」
 “青木芝居”だった。こうして天伯地区を第一候補地とすることが決まった。
 しかし、建設地として想定した天伯地区33㌶のうち24㌶(72%)は総合開発機構の子会社・総合用地が所有しており、市が買い取るにしろ、課題が多かった。
 「文部省が言うんだよ。浜松は医科大の土地をただでくれたぞってね。言い返してやったさ。その代わり、文部省の官費で“市民病院”を造ってやったじゃないかって。技科大は全国から学生が集まる大学だ。事情が違うぞってね。」
 天伯地区が第一候補地となったものの、総合用地の問題のほかにも、ネットを張った予定地内に豊川用水の幹線が走っていたほか、80余のお墓があった。総合用地の住宅団地計画もそれで暗礁に乗り上げていた。
 

 中村事務局長を中心に天伯地区に対して協力を要請し、夏過ぎには一部買収交渉に入った。しかし、お墓の移転話は難航した。
 秋になって、先行していた新潟県長岡市に激震が走った。頼みの田中角栄首相が月刊誌「文芸春秋」11月号(立花隆著の田中角栄研究)によって金脈問題を暴かれたためだ。緊迫した政局となり、その年11月に田中首相が辞任し、12月の臨時国会で内閣総辞職した。
 74年はオイルショックの影響で、厳しい予算編成を迫られていた。その上、田中首相の失脚というWショックで、長岡は大きく揺らいだ。
 75(昭和50)年度予算案が大蔵省内示時点で0査定となって現れた。豊橋も同様だった。再び青木助役はじめ商工会議所、JCらの陳情団が大挙して上京し、文教族トリオの河野洋平、藤波孝生、西岡武夫氏らに復活陳情を行った。上村、村田両代議士らも尽力した。
 その結果、技術科学大学院創設準備運営費並びに事業費が認められ、政府案に計上された。
 「陳情のたびにどれだけちくわを使ったか知れんよ。戦後の総理で偉いのは田中角栄だけだ。田中は日本全国を見ていたし、日本の真ん中を考えていた。他のくだらん総理はお江戸のことばかり考えていた。オイルショックで金がないから、1校にするというんだ。長岡は区画整理でやるから、後回しだというんだよ。バカなことを言うなって言ってやった。豊橋も長岡も一緒にやれってね。青木のおかげで助かったって、田中から感謝されたよ。わしも元気がよかったからねえ。」
(山崎祐一)

 
 
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豊橋技科大物語 誘致編⑧ 河合市長から青木市長へ
 
 
 

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 ◇豊橋技科大物語 誘致編⑧◇

  ~河合市長から青木市長へ~  10月11日付 東日新聞


 文部省から75(昭和50)年1月、技術科学大学院創設準備運営費並びに事業費が認められたと連絡が入った。長岡と一緒だった。正式に大学院用地として天伯地区36㌶を報告し、「76(昭和51)年10月開学」の方針が示されたため、2月には豊橋市土地開発公社理事会を開いて、天伯用地購入の予算措置を講じた。長年にわたって愛知県知事を務めた桑原幹根氏が引退し、仲谷義明氏が知事となった。
 4月、知事交代に合わせるように、河合陸郎市長が引退し、助役の青木茂氏に後を任せた。人事異動で、それまでの国立技術科学大学院設置対策事務局を同院創設対策課に昇格させ、事務局長(企画主幹)だった中村剛氏を課長、用地対策課にいた藤城芳之氏を推進室係主査、佐野阜石氏を推進係に任命した。天伯用地の買収を行うためだった。5月には、市議会から同院創設対策特別委員会を設置した。
 藤城氏はお墓の移転に明るく、辞令が出る前から内密に法務局通いを続け登記簿を図面に落とすなど、地道な下調べを行っていた。「秘密裏でしたが、辞令の出る1年ぐらい前から大学誘致の候補地探しに携わっていました。同じ用地対策課にいた大塚健一さんが担当していたんですが、人手が足りないと言うことで、手伝いに借り出されたのが最初でした。当時、文部省には(天伯を)届け出ていたんですが、まだはっきりしていなかったようです。」
 敷地はその後の協議を経て少し広げ36㌶になった。豊橋市土地開発公社を窓口に前年暮れから買収に入っており、藤城氏は辞令を受けるなり、用地交渉に当たった。豊川用水の幹線移設と墓地の移転が大きな課題として残っていた。
 

 豊川用水の幹線移設は主に中村剛・創設対策課長が担当して水質資源開発公団との交渉を行った。藤城主査は墓地の移転を担当した。前職で土地区画整理事業を担当し、持ち前のねばり強い交渉能力が評価されていた。
 「お墓の移転というのは結構難しく、大金を必要とするんです。特に無縁仏の場合、全国紙に何回か公告を載せなければならず、時間と労力を必要としました。精を抜いて移転し、移転先でまた精を入れるんです。根気のいる仕事でした」
 中村課長は「墓地移転が難しかった時の話ですが、河合市長に頼んでお金を出してもらってね。視察名目で役員たちを旅行に連れて行ったりしました。旅行から帰ってきたら、いっぺんに話が進むようになりました。」
 中村、藤城、佐野氏の創設対策課3人は、夜討ち朝駆けの毎日を送った。「何しろ期限を切られているんで、やるしかなかった。」と藤城主査。「移転交渉で手間取ったことはありましたが、大学の建設そのものに反対する人はいませんでした。個人的にも工科系大学を誘致すべきだと考えていたので、力が入りました。忙しかったけれど、一番充実していたんじゃないかなあ」。佐野氏は「中村さんに尽きるよ」。
 文部省はその年8月、それまでの「技術科学大学院」を「技術科学大学」と改称した。大学院の設置には学校教育法の改正が必要であり、一般大学との関係などで困難だった。その結果、高専卒業生の受け入れだけでなく、工業高校を主体とした高卒生の受け入れも行えるようになった。
 豊橋から豊田高専へ通っている学生は数少なかった。「せっかく豊橋に大学ができるんだから、地元から入れるようにしたい」と考えていた中村課長は早速上京した。河合市長の指示で衆議院議員・河野洋平氏を訪ね、思いを伝えた。「実現しましたよ。募集300人のうち60人を高校から取ってくれることになりました。私の息子も大学進学の時期でしたから、気づいたんです。一番うれしかったことでした」。
 前年夏の参議院選挙で、総合開発機構社長の藤川一秋氏が初当選を果たしていた。年末が近づくと、新年度予算の厳しさが伝えられるようになり、上村、村田両代議士らを先頭に文部省から大蔵省、自民党本部などを陳情行脚して回った。商工会議所やJCも加わっていた。またしても年末、それも12月29日の深夜に予算の復活が決まった。全市挙げた陳情のたまものだった。
(山崎祐一)

 
 
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