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Chapter01

山田剛史(やまだ たけし)/エコロジー工学系 助教 

山田剛史助教平成20年10月1日付けでエコロジー工学系の助教として着任しました。
平成18年3月にもう一つの「技術科学大学」である長岡技術科学大学にて、嫌気性廃水処理プロセスのバルキング化を抑止する上で必要な糸状性細菌の生理や生態に関する研究を行い、博士課程を修了しました。その後、東北学院大学工学部環境防災工学研究所にて博士研究員として、温室効果ガスの発生を抑止した窒素除去プロセスの開発やコンポスト製造技術の開発に関する研究業務に従事し、現職に着任しました。

生物学的な環境制御・保全技術の発展・向上は、複雑な微生物群集を如何に理解し、コントロールするかにかかっているといって過言ではありません。しかしながら、その微生物たちの世界は未知であり、開拓すべき広大なフロンティアが広がっております。小さな微生物の声に耳を傾け、近未来への新たな環境技術の創成に向けて、学生の皆さんと一緒に頑張っていきたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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Chapter02

豊橋技科大に思うこと―文武両道―/情報工学系 教授 田所嘉昭(たどころ よしあき)
富士山頂にて筆者ら私は、本学に学生が最初に入学して来た昭和53年に東北地方から本州のほぼ中央に位置する豊橋に赴任してきて、本年度で無事定年を向かえようとしている。赴任当時の3年生との年齢差が14歳であったのが今年度は45歳もの差になってしまった。

当時、高専から本学に編入してきた学生は、各高専の代表選手のようなもので、お互いに競い合っていたため、寮の電灯がいつまでも消えないということで(勉強のため)、心配した学長が注意をしたとかいう話を聞いた。

このような学生の頑張りが基になって、本学は全国的にも優れた大学として認められるようになった。しかし、私が少し気になることは、「武」の方の鍛えは十分であろうかということである。「人間、命あっての物種」である。資本になる体を、もう少し鍛えてほしい。「健康な体に健全な精神が宿る」のであり、鍛えた「文」を活かすためにも「武」を鍛えて欲しい。

ブービー賞賞状昭和53年に始まった開学駅伝大会も今年度で31回になるが徐々に参加者が減少傾向にある(本年度は少し盛り返した)。第1回の大会には、ほぼ全員の学生が思い思いのスタイルで参加し(競走する者、仮装して大会を盛り上げる者など)、これから我々の大学を作っていこうという意気込みが感じられる大会であった。教員もかなり参加している。3,4系では、教員チームを作ったこともある。学生チームと競い合って、第2回では7位、第3回では6位に入賞している。当時の先生方は少し余裕があって、学生と一緒になって遊ぶような良き時代であった。その中には、現、研究担当副学長の石田先生、九州工大工学部長の西垣先生なども入っている。また、教授チームを作ったこともあり、第3回の大会でブービー賞を獲得している。その中には、前学長の西永先生、第3代の副学長の楠先生、岐阜高専校長を勤めた小崎先生などが含まれている。最近の開学駅伝大会は、運動部を中心としたチーム(陸上部、トライアスロン等)が強く、我が研究室の素人集団は、入賞圏内すれすれの所をうろついている。運動部は運動部で競い合って良いが、もう少し研究室単位で気楽に楽しく参加できるような大会になればよいものと思っている。学生の皆が健康を維持するためにも。

平成7年度開学記念駅伝大会にて私は、この文武両道の精神を受け継ごうと、研究室の方針は開学駅伝大会には全員参加をモットーに今年度までやってきた。開学間もない年には、我々は夕方になると誘い合ってよく大学の周りを走っていたので、「第二陸上部」などのうわさとなり、一度は優勝したこともある。卒業生の中には、研究室のこの習慣が身について社会に出てからも走っている者がいるようで結構なことと思っている。おまけに平成4年から豊川シティマラソン(10km)(豊橋シティマラソンが2月から10月開催に変更になった平成15年からはそちらに)に参加して、10km位は走れる体力をつけて社会に出るようにした。また、平成5年からは、3年に一度(学部4年から修士修了までの期間)日本一高い富士山への登山も始めた。日本で一番高い所に登れたという自信をもって社会に出て行って欲しいとの思いからである。学生にとってみれば、とんだ研究室に入ったものと考えた学生もいるかもしれない。しかし、「同期生でまた富士山に登りました」との便りをくれる学生もいる。なお、学生の「文」の成果として、これまでに電気通信普及財団のテレコムシステム技術学生賞5件、学会の全国大会・支部大会の優秀発表賞、奨励賞を10件受賞している。

この記事をお読みの皆様も是非自分の健康に今一度注意してみてください。少なめな負荷を体にかけるような運動を心がけ、それを持続させる努力をしてください。健康な人間であるために。
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Chapter03

豊橋技術科学大学国際協力の原点HEDSプロジェクトと今後の国際協力展開への提言/工学教育国際協力研究センター 教授 本間寛臣(ほんま ひろおみ)
筆者豊橋技術科学大学に赴任したのは昭和54年4月1日であった。実は、昭和53年の1月に豊橋商工会議所で開催された大学立ち上げの会議にも赴任予定教官の立場で出席していた。当時は大学の建物も完成しておらず、キャンパスも現在のように舗装されておらず、土がむき出しのままであった。53年1月会議終了後に大学を訪れたが、雨でキャンパスは泥んこであった。その当時と比べると、建物も計画どおりに建造され、また新しい棟も追加され、教育研究の場であるキャンパスは雲泥の違いである。

さて、本学を去るに当たって、自分が十分に役割を果たせなかった反省をこめて、本学の国際連携に関する私見を述べさせてください。

本学の国際連携活動の根源の一つに、インドネシア高等教育支援計画(HEDS)プロジェクトを挙げるのが妥当と思います。1990年から2002年まで本学が主体となって支援してきたプロジェクトです。11のインドネシア地方大学における教育の質向上を目的としたもので、毎年、本学から当プロジェクトに4名強の教員を派遣し、地方大学の先生を指導してきました。12年間で約50名の本学教員がインドネシアの大学を訪問したことになります。このような長期間にわたって本学とインドネシア大学との交流が継続されたことにより、本学の存在がしっかりと印象付けられ、本学の教育研究の質の高さも理解され、バンドン工科大学、ガジャマダ大学、スラバヤ工科大学、北スマトラ大学、シャクアラ大学、アンダラス大学、ランポン大学、ハサヌディン大学との強固な信頼関係が構築されました。特にバンドン工科大学には本学インドネシア事務所を設置し、交流の拠点としての機能を果たしています。

インドネシアに加えて、東南アジアではマレーシア、タイ、ベトナム、カンボジア、南アジアではスリランカ、東アジアでは韓国、中国の大学と交流を拡大してきましたが、今後本学の国際戦略はどうあるべきか、真剣に議論すべき時機にきています。私の知る限り、東南アジアの大学に多くの日本の大学がすでに接触して、交流をしようとしています。とりわけ、インドネシアバンドン工科大学を見ても、東京工業大学、京都大学、大阪大学、東北大学、名古屋大学がすでに接触し、新しい教育・研究プログラムの提案ならびに立ち上げを始めています。彼等の目的の一つは優秀な留学生の獲得です。留学生30万人計画も打ち出され、40以上の大学が留学生獲得に乗り出します。彼等とまともに競争したら、本学はまったく歯が立たないでしょう。優秀な留学生を獲得するのも、今後ますます難しくなることが予想されます。

本学がこれら他大学の動きに対抗していくためには、まず、国際連携活動のミッションおよびビジョンをしっかりと策定し、それに沿った戦略を立案し、実行することが肝要です。私は次のような本学のミッションとビジョンを考えてみました。
アジア版国際技術者教育プログラム
1.    ミッション
@  日本人学生および留学生を対象にした国際的視野とセンスを持った実践的研究者・ 技術者の養成
A 地域社会のグローバル化活動への積極的な貢献
B アジア諸国の工学系大学と連携し、アジアの文化・生活習慣を共有しながらアジアの豊かな天然資源の効率的で効果的な利活用と環境保全を推進する。
2.    ビジョン
上記使命と役割を達成するためのビジョンは
@  アジアからの優秀な留学生を積極的に受け入れ、留学生数は学生定員の2割以上となり、日本人学生が留学生と交流できる機会が増大し、国際的視野とセンスを磨くことが可能となる
A 多くの留学生が積極的に日本企業・地元企業に就職しすることを支援し、その結果として地域社会のグローバル化が促進する
B アジア諸国の工学系大学の教育・研究の質向上を支援して、世界標準レベルの教育プログラム認証(例えば、JABEE)の取得を支援する。これらの大学間に本学を核としたネットワークが構築され、大学間で留学生のモビリティが促進され、本学の留学生受入れが増大する
C アジア諸国の工学系大学とネットワークを通した教員、学生の交流が促進され、その中から国際産学官連携活動が積極的に展開され、天然資源の効率的・効果的利活用が促進し、環境保全技術が開発される

このような、ミッション・ビジョンを達成するための戦略として
@ 多くの奨学金の調達
A 海外事務所の活用法
B ベトナム HCMUTプロジェクトの資産を如何に活用するか
C 留学生同窓会の活用
D 国際産学連携事業推進のための日系企業との連携
E その他
が考えられますが、具体的にこれらをいかに有機的に組み合わせながら戦略を構築していくかが必要です。豊橋技術科学大学のみなさんの叡智に期待をしております。
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Chapter04

技科大に思う/語学センター 教授 伊藤光彦(いとう みつひこ)
地元ラジオ局の取材に応える筆者技科大の創設と同時に、正確には最初の学生の受け入れと同時に、私は本学に縁あって着任した。当時を知る人は誰もがその熱気について語っている。当時の第7学系(人文・社会工学系)に所属する英語担当の新米大学講師として私は日々の英語教育に精出していた。高専から編入した学生は英語の授業もとても意欲的に受けていたが、私は国立の大学なら当然と思っていた。新設の大学の熱気は専門系の先生方から充分に感じられた。また、授業を通して高専出身の学生からも強く感じられた。

技科大発足当時の大きな特徴である国立一期校、講座制教員組織、大学院大学と言う言葉からして旧帝大と同格かそれ以上である。国立一期校は一般社会から認知されるだろうが、あと2つの特徴は認知の対象とならない。さらに、工業高校から推薦試験で学生を受け入れる、普通高校からの入学定員が当時30人、高専から3年編入が主な対象、工学部のみという条件で、旧帝大と同等とは一般社会から認知されないと理解していた。この理解は今でも変わらない。しかし、社会からの認知が得られにくいこのような大学を当時の文部省が設立したことは事実だから、文科省が技科大を評価するときこうした特徴を備えている点を考慮すべきであろう。

先日インターネットを見ていたら「地元の人からは研究ばかりしている変な大学とみられている」という書き込みがあるのを知った。このような書き込みが誤解に基づくものなら、その誤解を解く必要がある。これまで地域に対する社会貢献を積極的に行っているが、これからも地元である豊橋及びその周辺地地域の人達からこれまで以上に理解を深めてもらい、親しみを持ってもらうように今後とも努力を払う必要があるのだろう。

さらに、卒業生が何々研究室を出たと言うのではなく、豊橋技術科学大学を卒業してよかったというような教育環境をこれまで以上に整備すること、そして同窓意識と母校への愛校心を持ってもらうような組織作りがあるといいのではないか。卒業生が自分の子弟を来させたいと思うような大学になることは私学で見られるが、私学経営のいい点は今日では実質国立大であれ、取り入れていくことは悪くはないであろう。技科大で親子2代に渡って教育できることになれば子弟を教える者からすればこんなにうれしいことはないであろう。将来技科大の統廃合問題が起こったとき、技科大のさまざまな応援団があったらどれほど心強いだろうか。企業以上に、まず卒業生から、そして地元の人達からの声の方が文部科学省および一般社会に対して説得力を持ってくると思う。

1年次入学生にせよ3年次編入生にせよ、青年期後期にあり、それぞれ人間として価値観の獲得最終期にある。教育と研究の場である大学は将来の日本を担う若者の育成が大学としての最大の責務であるはずである。ならば、当然教育が先にあり研究が後であろう。その教育も職業教育と人格の陶冶を含む教養教育を並べたとき、学生の卒業後の「生きる力を」育てることを考慮したときには比重は後者ではないだろうか。教育は卒業直後に花開くものではなく、20年、30年たってその真価が問われるようなものであろう。技科大だけに限ったことではないが、今後益々変化していくと思われる大学教育でも変わらざるべきことは変わらないで欲しいものだ。
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Chapter05

技科大20年/語学センタ− 教授 小杉隆芳(こすぎ たかよし)
筆者早いもので、技科大で教え始めて今年でちょうど20年になります。区切りのよいその20年で私は大学を去ることになります。その間に技科大、いや国立大学全体は随分と大きな変貌を遂げてきました。世代を異にするせいか、あるいは長く人文系の学部で学んできたためか、私自身いまだに大学をかつてのように、のんびりとしてゆったりした学問の世界というイメージを払拭できぬまま現在に至っています。

大学とは、高校時代の愚劣な受験勉強−またその愚劣さを私に指摘してくれた教師は一人もいませんでした−から解き放たれ、読書であれ、スポーツであれ、音楽であれ、何の制約も受けず、そこでしか味わえぬことを思う存分に果たせる場所と信じてきました。私の尊敬する詩人で優れた思想家の一人も「長い人生のうちでも、好きなことが思う存分にできる短いその4年間こそ、大学の持つ最大の価値であり、快楽である」と述べ、そこで享受できる自由こそ最も貴重な価値だと説いています。それをいかに価値あるものにするか、あとはそれぞれの腕次第ということになるというのです。この助言に従って、学生時代の私は日々の講義も半ばなおざりにして、高校時代には得られなかった念願の読書の世界に分け入っていったのです。もちろんそのため大学の成績は惨憺たる結果になってしまいましたが、そのかわりバルザック、スタンダール、フロベール、ゾラ、ユゴー、モーパッサンなど19世紀フランスを代表する作家、あるいはまた夏目漱石、三島由紀夫、太宰治、吉行淳之介など近代日本を代表する小説家たちの作品など、高校を卒業したら一日でも早く読もうと決めていた小説の世界に思う存分に浸り、その面白さを十分に味わうことができました。

ところが現在の大学はそうしたゆとりのある自由な学生生活を十全に保障してくれる場所ではなくなり、入学早々から専門分野の講義を可能な限り数多く受講しなければならないような仕組みへと変化してしまっています。言い換えるなら、学部から少しでも早く専門家の卵を育て上げようという体制が出来上がっているといってもいいかもしれません。その体制を保障する出発点となったのが1991年に導入された大綱化とカリキュラムの自由化だといえるでしょう。これによって多くの大学では旧教養部が解体され、教員やカリキュラムなど全てが専門課程に吸収合併されてしまいました。専門的な知識を入学早々から多量に身につけるという意味ではこれに勝るものはないでしょうが、その反面、文学、歴史、哲学、語学・・・などいわゆる雑学に類する分野を方向も決めずに、ゆっくりと学んでいく機会は失われてしまいました。いささか残念な気がしてなりません。

しかし幸いにして技科大では、9系(人文・社会工学系)教員や心ある教員の努力によって大綱化の影響は最小限に抑えられ、現在も建学当初の人文系の講義は大部分残され、学部生や院生の人たちは専門分野を学びながら、同時にまた可能な限り多くの語学や人文系講義を学んでいます。人間を狭い専門分野だけに閉じ込めるのではなく、雑学を土台に人間性豊かな個性ある存在にするものとしてこれ以上優れた体制はないでしょう。将来大学内部の組織替えが行われても、是非ともこの組織体制が保持されていくことを願っています。
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Chapter06

豊橋の地ビール愛好家/エコロジー工学系 准教授 田中照通(たなか てるみち)
Ich mag das Bier.「私はビールが好きだ」ドイツ語の教科書もこの文章から始まるようにかの国の人たちはビールを愛します。麦とホップと酵母と水だけから作られる魔法の液体に舌鼓を打つ至福の時を過ごせるのは何よりも幸せです。

地ビールを片手に上機嫌の筆者地ビールブームが一段落した今、豊橋居住の地ビール愛好家はどこへ行けばよいのでしょうか?残念なことに豊橋市内では地ビール工房に出会えていませんが、近隣の市まで足を伸ばせば美味しいビールに出会えます。比較的近場では浜松駅前のマイン・シュロス。電車+徒歩での移動が可能です。他には安城市のデンパークのホレフェスト。ここは公園のレストランなので酔いが覚めるまで公園での散策が可能です。少し海を渡るなら伊勢市の伊勢角屋麦酒蔵。ここはタクシーを使わないと行けませんが、木造建築のレストランがいい感じです。個人的な好みではここのケルシュが最高でした。小さなお子さん連れの家族なら小牧のリトルワールドはいかがでしょう?季節が合えばドイツ村で美味しいビールに出会えます。ビールは苦いって思っている方は一度ヴァイツェンをお試しあれ!麦のホロ甘いうまさに常識が覆ることでしょう。

「マイン・シュロス」 http://www.hamamatsu-soko.co.jp/ms/actbeer.html
「デンパーク」 http://www.denpark.jp/
「伊勢角屋麦酒蔵」 http://www.kadoyahonten.co.jp/restaurant/index.html
「リトルワールド」 http://www.littleworld.jp/
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