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Chapter01

藤原 洋志(ふじわら ひろし)/情報工学系 助教

藤原洋志助教

 私の研究分野はオンライン最適化です。オンライン最適化とは、「将来の情報無しにいかに良い結果を得るか」ということです。例えば「スキー板はレンタルか?あるいは買うか?」という問題を考えてみて下さい。将来何度スキーに行くか全く不明です。どうすれば安く済ませるでしょうか?実は、レンタルが3千円、買えば3万円かかるとすると、「9回目のスキーまでレンタルで10回目に買う」のが(ある妥当な基準で)最適なのです。この理論は省電力制御等に幅広く応用可能です。ちなみに私はスキー大好きで、当然スキー板は所有しております。

 

さてスキーよりももっと好きなのが語学で、ドイツ語、中国語やポルトガル語等を趣味で勉強しています。豊橋にはブラジル人が多く住んでいるようなので(ゴミの出し方がポルトガル語で書いてあるのにはびっくりしました)、是非ポルトガル語を習得したいと思っています。

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Chapter02

前豊橋技術科学大学長 西永 頌(にしなが たたう)

ドイツ技術博物館にて、筆者。学長の任期が終わり、5月からは研究生活に戻り、ドイツの首都ベルリンにあるライプニッツ結晶成長研究所というところでVisiting Scientistとして滞在しています。かつて日本はドイツに多くの事を教えていただきました。日本の法制度がドイツをお手本として作られたことは良く知られています。また、量子力学を始め近代科学においてドイツは世界にぬきんでていましたので日本の科学者はドイツ語を学び日本における近代科学の普及に努力しました。さらに、戦前の日本の大学制度はドイツの大学をモデルとして作られましたので、大学人としてドイツは特に親しみの持てる国です。 

 

今回、ドイツに行くに当たって研究以外にぜひしたいことが一つありました。それは、すでに故人となりましたがドイツで学んだ私の父の足跡を訪ねてみたいという事です。個人的なことになり恐縮ですが、父は、大学の農学部を出て、旧制宇都宮高等農林学校の教員になりました。現在は宇都宮大学の農学部になっています。父は、ドイツがナチスによって支配される直前、1931年にベルリンに行き、翌年から1933年にかけてベルリンからそう遠くないドレスデン近くターラントというところで林学を学びました。戦前、国は多くの教員を外国に送り、外国で学んだ知識を教育に生かし日本の発展に役立てようと考えたのです。

 

そこで、是非ターラントに行ってみたターラントにあるTU Dresden の森林・地質・水理学部の標識。この建物は、前身の森林学アカデミーという学校を創立したCottaを記念して作られた。いと思いました。ベルリンからICEという国際列車で約2時間、人口約50万人の工業都市ドレスデンに着きます。そこからローカル列車で20分ほど行ったところにターラントはありました。豊かな森林地帯に囲まれ、古くから林業の盛んな所です。列車から下り、歩いて町の中心に行くと父の学んだ学校がありました。ところが、その学校は今やドレスデン工科大学(Techenische Universitaet Dresden、 TU Dresden)と本学の親戚のような名前の大学に所属する森林・地質・水理学部となっているのです。父が林学を学んだのは知っていましたが工科大学で学んだという事をここで初めて知りました。

 

皆さんは工科大学になぜ森林に関する学部があるのか不思議に思いませんか。日本では農学部は工業大学ないし工科大学にはありません。ところがドレスデンに本部を持つTU Dresdenは法学部、哲学学部(Faculty of Philosophy)など文系学部、理学部、医学部など14学部を持ち学生数34,000人を擁する総合大学です。ドイツはじめヨーロッパのTUは単科大学ではなく総合大学なのです。

 

ドレスデン中心街不思議に思う原因はTechnologyを工業ないし工科とした明治の先達の訳にあると思います。Technologyは工業に限らず、人間生活の全体に関係しています。正しい訳は、技術ないし技術学(技術科学)でしょう。明治の時代、技術は工業においてもっとも有用であり発展性があったのでTechnologyを工業と訳しました。また、日本では技術を学問とはみなさず人間の手足を使った技術として理解してきました。いわば、技術を技能と捉える考え方です。そのため技術を大学の名前につけるには抵抗があったのだと思います。従って、Technologyを工業と訳したのには、それにはそれなりの背景がありました。しかし、今や、技術は工業という枠を越えて医学にも農学にも非常に重要な役割を占めています。従って、Technologyを工業と訳すのは時代に合わなくなってきていると思います。

ベルリン研究所群が共同で持っているベストハウス近くのアルトケペニークの風景

 

TU Dresden は、1828年の創設ですから、180年の歴史があります。これだけ時間をかけて14学部、学生数34,000人の大学になったのです。本学は一昨年30周年記念を迎え、一学部、学生数2,200人までになりました。あと150年かければ本学も学部数14倍、学生数15倍の大学になるのは不可能ではありません。法人化後、国立大学は実力さえあれば学部を増やし、新しい領域を開拓する事により高いレベルの学問を創出する大学になって行くことができるようになりました。150年先を見て、Techenische Universitaetの正しい思想を受け継ぐ総合大学、技術科学総合大学として大きく発展して頂きたいと思います。

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Chapter03

前豊橋技術科学大学理事・副学長 小林俊郎(こばやし としろう)

中央が筆者

この3月に四半世紀にわたる豊橋技科大での勤務を終えました。この25年間について、自分自身まだ整理しきれていません。私は大学卒業後民間企業と旧帝大といわれるところにそれぞれ約10年在籍後に技科大に来ました。

私は平成14年より副学長に就任しましたが、平成16年4月より国立大学が法人化されるという画期的な変革が行われました。国立大学約130年の歴史の中で、50年前の新制国立大学化以降最大の変革といわれています。その骨子は、競争原理の導入による大学の活性化であり、今現在大変な改革が進行していることは周知と思います。

一方平成18年に当学は創立30周年を迎えましたが、現状の8工学系+1人文社会工学系の研究組織は発足当時からのマイナーな改組のままであり、本格的な見直しが必要とされ、議論が進められてきております。

ところで技術科学大学の特徴と使命は何であったのかを大学を離れた今、冷静に考えています。この大学をキーワードから考えてみると、高専、技術中心、発明、特許、地域などが浮かんできます。つまり技術の本流を目指すべき大学であり、この点で他大学工学部と差別化すべきであり、特徴を出すべきということになります。技術とは何か?広辞苑によれば、(1)物事を巧みに行うわざ(2)科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工し、人間生活に役立てるわざ、と記されています。(2)の場合、実際への応用が重要となります。現代の技術は、科学の裏付けなしにこれを実現することはきわめて難しくなっていますが、科学の基礎理解にはきわめて多大の労力と時間が必要で限りがありません。私が会社にいたとき、「時間をかければ誰にでもこの開発はできる」とよく言われました。そこを効率的に解決するのが技術者というわけです。抵抗が大きいと思いますが、大学人、特に技科大の先生はこの点に意識を持つべきでしよう(反省の弁でもあります)。一方このようなセンスを持った学生が本学には多くいると思います。手足を動かし実践的な技術を習得することによって、このような感独創へのプロセス性が養われているようにも思えます。

私の従来から考えている独創への道の一つの流れとして、図に示すような習・離・破のプロセスがあります。古来わが国の芸道などでいわれてきたことですが、科学や技術の大きな発明や発見にもそのまま当てはまるでしょう。技術の場合は特に産学連携が大切で、この点当学のインターンシップがやはり重要といえます。さらに基礎科学の支えが重要ですが(これをばねにして展開しなければなりません)、この点を効率化するものとして例えばセレンデイピテイ(Serendipityとは予期せぬところからおかげを蒙るための一つの技である---ラングミュア:ベニスで出版された「セレンデイップ(Ceylonの古名)の3人の王子」という童話をH.Walpole(英)が英訳した際に造った語といわれる。Ceylonの賢い3人の王子の物語が骨子になっている。
ノーベル賞の白川博士がよく引用される)なるひらめき感受性があると考えます。体験学習や基礎知識がこれを支えると思います。是非先生方にはこのような議論を踏まえた上で、技科大の真に進むべき道を新たに探っていただきたいと願っております。

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