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新任教員紹介

退職にあたって

編集部だより

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Chapter01

後藤太一(ごとう たいち)/電気・電子情報工学系 助教

はじめまして、2013年8月に着任致しました。岐阜出身で、岐阜高専から、本学に編入し、博士を取得、その後、米国MIT(マサチューセッツ工科大学)でポスドク研究員を2年弱経験致しました。新規の磁気光学材料の探査、ナノ構造の導入、ナノ・マイクロデバイスの開発を中心に研究して参りました。今後は光に留まらず興味を高周波領域にまで広げ、人々に役立つものを産み出したいと思います。よろしくお願い致します。

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Chapter02

齋藤暁(さいとう あきら)/情報・知能工学系 助教
広大な学術世界を、できる限り遠くまで見渡してみたい、そういう思いを持って情報学と数物系科学の間の学際分野で研究をしています。私は2007年3月に大阪大学大学院基礎工学研究科で量子計算機に関する数値的研究で学位を取得し、その後6年半、複数の機関でポスドクとして量子情報に関連する研究をしてきました。今年度10月に、こちらの情報・知能工学系の計算科学研究室に助教として着任しまして、これまでの研究に加えて、計算物理化学用の数値計算ライブラリの研究開発も行っています。研究指向型大学の一員として、鋭意先端的な研究、教育に取り組む所存です。
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Chapter03

近藤恵美(こんどう えみ)/建築・都市システム学系 助教
2013年10月1日付で着任しました。学内の樹木が、まだひょろひょろと細かったころの卒業生です。随分成長したなぁと、歳月の流れを感じています。専門は温熱環境工学で、建築や都市の中の「生活者としての人間」の体感温度などを研究しています。地球温暖化で予想される気候の変化が人体にどれほど影響を及ぼし、建築や都市デザインでいかに緩和していけるか、皆様と共に学んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
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Chapter04

余語豊彦(よご とよひこ)/国際協力センター(ICCEED) 特任助教
2013年10月1日よりグローバル工学教育推進機構(IGNITE)、国際協力センター(ICCEED)の特任助教として着任しました。神戸大学大学院国際協力研究科で国際学修士を取得しました。教育システムや教育カリキュラムの質を向上するには、どのような課題があり、どのように取り組んでいくべきかが研究関心です。アフリカや中東イエメン等での研究活動・実務経験を活かし、技科大の国際化、世界で活躍できる人造りの仕組みをどう実現できるかを皆様と一緒に考え、努めていきたいと思っています。どうぞ宜しくお願い致します。
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Chapter05

お・ん・が・え・し/副学長/環境・生命工学系 教授 菊池洋(きくち よう)

「諸行無常の残影・近影」
技科大へ採用直後(1995年)

2013年の写真

私は、教育義務の無い民間基礎研究所に22年ほど勤務したのち、1995年2月より豊橋技術科学大学の教員となり、現在に至っております。丁度豊橋に移ることが決まった1994年末頃、米国の分子生物学者Alan Weiner教授と東京で食事をする機会がありました。大学へ移ることを話すと、「それはとても素晴らしいことだ。我々は先輩方から多くの知識、指導、鞭撻を得て科学の一線で働けるようになった。それは大変感謝すべきことでその恩返しをしなければならない。それを次の世代にお返し(恩返し)する機会を得られたことは、素晴らしいことではないか。」生き馬の目を抜く分子生物学の最先端でしのぎを削っている米国の研究者から、突然このような祝福?をされ、ある種の感銘を受けました。中身はあたりまえのことかもしれませんが、その当時それまで経験のない授業や雑用?が増えることへの不安を抱えていた私にとって、一流研究者の誠実なこの言葉、「恩返しは次世代へ」は、目からうろこでした。米国の科学教育の強さの基は実はここにあるのでしょう。先端科学技術のフロンティアを追求する科学研究が人の知恵と技術の拡大になり人類社会に貢献することは明らかですが、このことを次の世代へ伝えていくことは、科学研究を行うことと同じくらい重要であることに気づかされたわけです。

その後19年間、このときの感銘を一時も忘れず頑張ったつもりですが、今年度で退職ということになってしまいました。やりがいのある幸せな時間でしたが、なすべきことを何もなしていない気もします。卒業生が活躍するか否かが私の19年間を評価することになるでしょう(反面教師であったかもしれませんが)。上記のエピソード(「お・も・て・な・し」ならぬ「お・ん・が・え・し」が大事、流行語をもう一つ使うなら「倍返し」ならもっといいかも)を特に若い先生方に最後にお伝えしたいと思います。ありがとうございました。

 

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Chapter06

幕引きに風樹のつぶやき(ツィット)三言、いや一言を/機械工学系 教授 清水良明(しみず よしあき)

「最適化工学」は、決め方に関する私の提唱している新しい学問分野です。この決め方について最近違和感を持つことが多くなってきています。その原因の一つは、複雑で難解な論理や手順のほうが単純明快なものより格段に優れているかのような視点が広がっていることです。概して理路整然なものは単純です。”Simple is best”を優先すべきです。

二つ目は、結果の過大重視です。我々の世代は小さい頃から「ものごとを良くわきまえろ」と教えられました。「もの」は結果(製品、対象)で、「こと」は結果に至る過程(手順、方法論)です。製造業で「ことつくり」の重要性が増すと予想される中で、学術においてはとりわけ、「結果よければ全てよし」とする安易さを払拭する必要があります。この辺りは、宇宙物理学者の池内了が岩波新書「疑似科学入門」の中で「結果の現象のみをまくしたてることである。原理と結果が結びついていないのだ。にも拘らず、その言説が「科学的」であると信じ込まされることになる。」と述べ、道理(ものごと)のわかり易い説明の重要性を説いています。

「吾唯足知」が刻まれた
京都、龍安寺の蹲(つくばい)

最後に小生の拙著「最適化工学のすすめ」(コロナ社、2010)のコラムの一つから引用します。『「吾唯足知」の4つの漢字に共通している部品はもちろん「口」である。この部分を生かした蹲(つくばい)(石の手洗い鉢で、水が入る口の部分を真中に上、右、下、左に残りの部分を配置すればそれぞれの漢字が完成する)が京都の龍安寺にある。エネルギーや食料不足が懸念されている中で欲望が増大している世界にとって、「足ることを知る(老子)」ことは、「持続ある成長」を続けていくための重要なキーワードの一つであると著者は思っている。このことは、有限の有形物に対する戒めとして、「知的な飢え」についてはまったくこの正反対であってほしい。興味という土壌が豊かでなければ、知力という果実の収穫は望めない。「吾未足不知」を、教育を与えるもの、受けるもの両者にとっての心構えのテーゼとしたい。』

うーん、長々と述べ過ぎたようです。「簡単明瞭な道理を誠心誠意から追求することを決め方の法とせよ」の一言で済むことでした。17年間本学に糊口の糧を得たことへの感謝と皆様の新たなる飛躍の成就を祈念して口(ツィット)をつぐみます。
 

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Chapter07

今後の技科大の飛躍に期待する―情報理論的組織論―/情報・知能工学系 教授 中川聖一(なかがわ せいいち)

最近の本学は、すこぶる調子がよく、喜ばしい限りです。「研究大学強化促進事業」「博士課程教育リーディングプログラム」「ペナン校開校」などなど。

一方、全国的な学生の質の低下と同じく、本学の学生の平均パワーはずっと右下がりであり、標準的な学生相手では、世界はもとより他の有力大学と肩を並べる研究業績をあげるのは難しい状況です。しかし、上記プロジェクトは、本学の飛躍のチャンスとなりました。底辺の学生の底上げは勿論重要ですが、良くできる学生を世界トップクラスに育て上げる環境が整いつつあります。このチャンスを活かし、現在の活力を維持・発展させることができれば、本学は有力大学として安定期に入ることになるでしょう。今後の5年が本学の正念場と言えるでしょう。

全体のパワーを押し上げるための方策を述べる前に、情報理論のエントロピー最大の原理を、組織論を例にとって説明します。「組織の全パワーが一定のときには、個々の構成員のパワーが正規分布する時が、組織として一番安定(エントロピー最大)である」と言うものです。これから、以下の方策が思い浮かびます。


1. 構成員を増やし、全体のパワーを上げる。この方策は、定員削減の方向になっている現状では難しいです。しかし、外部資金等で特任教員等を雇用することはできるでしょう。
2. 個々の構成員のパワーを上げる(正規分布をパワーの正の軸へずらす)。余力のある方に、頑張ってもらうほかないでしょう。
3. 組織の構成員の流動性を増し(これだけでも組織は活性化します)、優秀な教員を採用することにより、徐々に正規分布を正の軸にずらす構成員にする。

「現状維持」、「全体のパワーの低下も止むなし」を含めて、皆さんの解は、如何でしょうか?

中川聖一著「情報理論ー基礎から応用までー」から抜粋

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Chapter08

青い空と白い稜線の彼方/環境・生命工学系 教授 竹市力(たけいち つとむ)

2010年米国での国際会議にて。
左から筆者、TarekAgag氏、石田初男先生。

本学に採用していただいてから5年後の1984年に米国コロラド州立大学にポスドクとして赴きました。当時本学では助手として、主に高山雄二教授(現名誉教授)の下で、学生諸君の研究活動のサポートを行っており、比較的自分のペースで研究できていた筈でした。それでもコロラドでの2年間は、自分の思うままのスケジュール管理で研究のみに専念でき、天国のようでした。ここで始めた研究が耐熱性高分子ポリイミドであり、今日まで私の研究のバックボーンになっています。実は米国に行くまでポリイミドという高分子は全く知らなかったと言っても過言ではありません。しかしながら、コロラドでは、青い空に囲まれ、冬は白銀の山々に囲まれた快適な環境のもと、新鮮な研究分野の実験研究に打ち込めました。大学院博士課程の学生時代、社会人山岳会に所属し、山に明け暮れていた自分にとって、初めて真面目に研究に取り組んだ時期であったとも言えます。

帰国する前に、恩師J. K. Stille先生に、帰国後もポリイミドについて研究を継続したいことを申し出、快諾していただいたので、豊橋においてもポリイミド関係の研究を展開しました。我々の世代はJohn F. Kennedy 元大統領の議会演説に端を発したアポロ計画による人類初の月面着陸に心躍らせた世代です。しかし、月面着陸機が黄褐色フィルムで覆われていて、それがポリイミドフィルムであるということを知ったのは、ポリイミドの研究を始めてからのことでした。宇宙に興味を持っていた私にとって、ポリイミドの研究は楽しいものでした。最近は開環重合によって得られるフェノール樹脂であるポリベンゾオキサジンの研究を主に行っていますが、その研究手法はポリイミドで培ったものであり、ポリイミドの研究経験なくしてポリベンゾオキサジンでの研究成果は生まれなかったと言えます。

私が大学教員としてなんとか無事に定年退職を迎えることができるのは、まさに運と縁のおかげです。学生時代の恩師である鶴田禎二先生と同研究室の諸先輩には、山に入れあげていた私に、研究者としての礎を構築していただきました。豊橋技科大の恩師、高山雄二先生には、大学教員の心構えなどをご教示いただき、自分勝手に研究をする私を温かく見守っていただきました。そして、コロラド州立大学のJ. K. Stille先生には、ポリイミド研究への道を開いていただきました。帰国直後の高分子討論会で宇宙科学研究所の横田力男先生がポリイミド分子複合材料に関する研究発表をされているのを聞き、声を掛けさせていただいたのが切っ掛けで、現在までの長い交流に結び付いています。日本ポリイミド研究会や日中ポリイミド会議などの立ち上げにも参画させていただき、多くを学ばせて頂きました。それに加え、多くの諸先輩方から、自分にとって新しい分野へ挑戦する切っ掛けを作って頂きました。

2012年米国NASA訪問。
上着を着ていないのが筆者。

1991年にフランス・モンペリエ市で開催された第2回ヨーロッパ・ポリイミド会議(STEPI2)に招待して頂きました。これがポリイミドについて国際会議で発表した最初ですが、それ以来、年に最低2回、外国での国際会議で口頭発表をすることを自ら課しました。STEPIへの参加を年間スケジュールで最優先し、2回目以降、毎回出席したおかげで、ヨーロッパ、米国、ロシアなどに多くの知人を得ることができました。1990年代の外国出張の多くは米国やフランスを中心とするヨーロッパでしたが、21世紀に入ると、米国のNASAや軍研究所が情報を出さなくなったこともあり、欧米よりも、目覚ましい発展を遂げつつあった中国に行く機会が増え、東南アジアにも何度も行くなど、多様になりました。それに伴い、それらの国に友人も増え、国際共著の論文の数も増えていきました。研究室の留学生も増え、一時は研究室の半分以上が留学生という時期もありました。

2013年研究室旅行で富士山登山。
5合目にて。前列真中が筆者。

以上のように、皆様のおかげで、ここまで来られましたが、学生時代には岩登りでの墜落や、冬山での滑落や雪崩などで、死にかけたことが何度もありました。いつか死ぬかもしれないと思いつつ、今回は大丈夫だという信念でクライミングを継続しました。本学に赴任してからも当時のワンダーフォーゲル部の顧問として岩登りや冬山を指導しました。米国留学を機に山から足を洗い、20年以上身体を動かしませんでした。言い換えれば、教育と研究に専念しました。しかし、10年ほど前に五十肩になったのを切っ掛けにスポーツジムに入り、ジョギングも始め、最低限の体力維持には努めてきました。今の自分がいくら頑張っても再びテクニカルなクライミングや烈風吹き荒ぶ酷寒の冬山には行けないでしょう。それでも、退職後を見据え、体力強化に努め始めています。退職後の目標は、青い空のもと、山を疾走すること、叶うならば、白い稜線をアイゼンを軋ませながら我が物顔に駈け抜けることです。

現在、大学改革が急ピッチで進められています。本学がその使命を果たすべく、正しい方向に舵を切っていくことを願っています。本学の発展と皆様のご健勝を祈念いたします。

                                  

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Chapter09

退職に当たって思うこと/建築・都市システム学系 教授 山口誠(やまぐち まこと)

豊橋技術科学大学に赴任してきたのは、1995(平成7)年の4月でした。実際には3月に引っ越してきました。大学に手続きのために来学したときのことが、今でも印象的に残っています。田舎の風景の中に小規模ながら近代的な大学の全貌が浮かび上がって綺麗でした。当分の間ここを拠点に頑張らなくてはと思ったことでした。この年は、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件など、暗い出来事で始まりました。どうなることかと思っていましたが、大学の全景を見て、気分も晴れやかになったことを思い出します。

旧人文・社会工学系計画経営大講座をまとめることが課せられた役割であり、平成22年度の再編まで自分なりに良くやったのかなあと思っていました。再編で、旧建設工学系と一緒になり、建築・都市システム学系計画経営グループとして今に至っています。

私の本来の興味対象は、社会の関数化です。計量経済学と言います。社会の様々な現象やシステムを関数の形に表し、連立方程式で社会経済のモデルを作成し、それを用いたシミュレーションで、各種の政策や現象の影響予測を行うことです。研究に志した若い頃の夢は、すべての社会現象を数式化して解明できる超大規模モデルの作成でした。この方向でのコンピュータの能力向上も、社会経済理論体系の整備も予想したほどには進まず、夢の実現はまだまだ先のことになりそうです 。本人としては楽しく取り組めたので不満はありません。

10年くらいで、他に移るだろうと考えていました。結局、定年を迎えるまで19年もお世話になることになりました。居心地が良かったのでしょう。豊橋の街も、1995年時点では全国住みやすさランキング10位、最新版では390位になりましたが、実感としてはまだまだ上位のような気がします。

退職後は、今までにかじった様々な趣味をできるだけ楽しみたいと考えています。気が多いので趣味も多いのです。若い頃の3大趣味は、計量経済学、SF小説、武道でした。今後も計量経済学は趣味の一つになります。時間・資金などをどの趣味に割り振るかを満足度(経済学では効用といいます)が最大になるよう決定できるモデルでも作って、決めようなどと考えています。

楽しく有意義な大学生活を続けることができました。ご支援をいただいた教員ならびに職員の皆様と卒業生OB諸君による賜であり、深く感謝しております。最後に、皆様の今後のご活躍と本学のさらなる発展をお祈り申し上げます。

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Chapter10

将棋指しの強さを求めて/総合教育院 教授 大串 達夫(おおぐし たつお)

豊橋技術科学大学に着任して30年以上が過ぎ、定年の歳となりました。今でも意識では「つい先日まで自分も学生だった」という思いでいますので、定年ということとのギャップに強く不整合を感じるし驚いてもいます。

私が本学に赴任したのは、本学の初期から物質工学系(再編前)教授として着任していた高石哲男先生からお誘いを受けたからでした。その頃、私は民間会社の研究開発部門に在籍していました。豊橋に来る事など考えもしなかった頃、高石先生から「これは俺の一番良い論文だ、読んでおけ」と別刷りを渡されました。その論文は多孔性物質内に吸着した分子の吸着状態を、熱力学的観点から測定・解析し、一次元気体として挙動していると結論づけた内容でした。内容は難しく、理解するのが大変でしたが、「俺の一番良い論文」と言い切れるものを持っている事は、駆け出しの私にも分かりました。研究テーマそのものに高い独自性が有る事、解明方法が高機能測定機器を用いればできるというような事では無く、研究者自身の自然現象に対する深い理解と考察が武器になっている事が格調の高さを生んでいると理解できました。

先生はこんな事も言っていました。「相撲で横綱が幾ら強いと言っても大した事はない。幕下が五人も一度に掛かれば必ず負ける。しかし将棋指しの強さは違う。凡人が一万人掛かっても一人の強い将棋指しには勝てない」と。先生は「大学での研究は、将棋指しの強さ(質の高さ)を求めるべき」と伝えたかったのでしょう。私が本学に着任する事になったとき、その論文の事を思い出し「自分のテーマで、あのような質の高い論文を書き、自然科学史の一頁に加えてもらいたい」と考えたものでした。

当然の事ながら研究はそう簡単に上手くいくものではありませんでした。しかし、二十年程前から取り組んだ「多孔性物質中の陽イオンの挙動」の研究では、かなりユニークな研究が行えるようになりました。独自に工夫した解析方法や計算方法を用い、これまで得られなかった情報や結論を当該分野に報告・提供できる事になりました。

今本学での教育と研究を振り返ると、学生と苦楽を共にした事、上手くいった研究・いかなかった研究、授業で学生から感謝と苦情を受けた事、等の記憶が頭を過ぎります。最後に、教育と研究の場を与えてくれた事を豊橋技術科学大学に感謝して筆を置きます。

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Chapter11

工学部は楽しい/総合教育院 教授 浜島昭二(はまじま しょうじ)

2012年2月、ミュンヘンにて

1978年にドイツ留学から戻り、翌年4月、本学に採用されましたが、技科大のことはまったく知りませんでした。高専については、成績優秀な中学の同級生が豊田高専を受験するという話を聞いていましたので、存在だけは知っていました。

着任して最初の授業の日、4年生になっていた1回生でしたが、亡くなられた冨田弘先生に付いて教室に行くと、「浜島君はドイツから帰ってきたばかりなので、今日から彼が担当する」と学生に、「じゃあ、よろしく」と私に言ってさっさといなくなってしまいました。教科書は渡されましたが、高専のドイツ語のことも前年の授業のこともわからず、レベルを知るために矢継ぎ早に学生に尋ねることからスタートしました。今から考えると、彼らもずいぶんびっくりしたことでしょう。

以来、私はずっと授業は楽しい仕事だと思ってきました。楽しいのは私だけで、学生諸君はそうではなかったのかもしれませんが、工学部学生相手の授業は気持ちのいいものです。そして、工学部の先生方とのお付き合いも独文学会の知り合いと比べて実にさわやかなものです。分野が異なるからいいのでしょうが、工学部は楽しいところでした。お付き合いいただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

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Chapter12

36年を振りかえって/総合教育院 教授 安田好文(やすだ よしふみ)

南知多ビーチランドとの共同研究
ハナゴンドウの呼吸・心電図計測の1コマ。
白衣が 筆者。

7年間の高校勤務の後、本学が一期生を迎えた昭和53年4月に縁あって奉職することができました。新構想大学としてスタートした本学と同様に、私自身も正にゼロからのスタートでしたが、何とか36年後のゴールにたどり着くことができました。後半は少々息切れ状態でしたが、体育・スポーツの教育、そして運動生理学研究に没頭できた36年間でした。

まず、体育・スポーツを通して多くの学生と交流できたことは、体育教師であったからこそ体験できた素晴らしい財産です。ただ、36年間を振り返ると、学生の体力や運動能力に大きな変化があったように感じます。学生の体型がスリムになったこと、基礎体力の低下傾向が続いていること、苦手な種目が増えたこと、チームスポーツを全員で楽しむことが年々難しくなっていること、などが気になった点です。従って、大学における体育・スポーツ教育の在り方を自問しながらの36年間でしたが、その流れを変えることができたかは分かりません。

一方、私にとって研究もまた、たいへん楽しいものでした。名古屋大学総合保健体育科学センター、名古屋市立大学医学部との研究交流、NEDOの補助による企業との共同研究などを通して、運動時の呼吸・循環機能に関する研究を幅広く進めることができました。呼吸代謝システムの開発、インピーダンス法の再評価と運動・睡眠研究への応用、カオスをはじめとする非線形解析法の導入など、本学にいたからこそ進められた研究も多かったと思います。最近注目されているガス状伝達物質(NO、CO、H₂S)を計測できたことも最後のいい思い出となりました。

研究を進めるに当たり、多くの先生、学生からご支援、ご協力をいただきました。この場をお借りして、心からお礼を申し上げたいと思います。

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Chapter13

鉄鋼材料の研究40年と国際交流/国際教育センター 教授 梅本実(うめもと みのる)

1987(昭和62)年4月に京都大学より赴任し、27年間にわたり鉄鋼材料を中心に材料工学の教育と研究に従事しました。

鉄鋼材料の研究で記憶に残るのは鉄の炭化物であるセメンタイトを世界で初めて合成し、その物性を測定できたことです。セメンタイトが準安定であるため、単体として取り出すことがこれまで不可能でした。我々はボールミルと焼結という方法で、大きなセメンタイトの塊を作ることに成功しました。驚いたのはサンプルの提供を尋ねてきたのが、天文学者と地球物理学者だったということです。宇宙にセメンタイトが存在する可能性があるらしく、また地球の内核はセメンタイトの可能性があるようです。鉄と炭素というごくありふれた元素の組合せは、多くの分野で興味を持っていただけるという事を知りました。

学生時代5年間アメリカに留学した経験から、可能な限り留学生を受入れることにしました。受け入れた留学生は延べ50人以上になります。研究室ではいつも英語が聞こえていました。お陰で海外勤務中の嘗ての日本人学生、出身地の大学で活躍中の元留学生が世界中にいます。

今となってつくづく思うのは多くの学生や教職員の人々に支えられ、思う存分研究をさせてもらって充実した技科大での教員生活だったということです。皆様に感謝すると共に、皆様の今後のご活躍と本学のさらなる発展をお祈りします。 


 

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Chapter14

かつての工作少年の雑感/機械工学系 准教授(天伯編集部会員) 鈴木孝司(すずき たかし)

子供達と愛知県長久手市にあるトヨタ博物館を訪れたときの雑感を少々。同館には最初の自動車から、モノクロ映画に出てきたような車、さらには憧れだったスポーツカーまで多くの旧車が展示されていて、なかなか見ごたえがありました。例えば、1930年代の自動車が、すでに基本的に現在とほぼ同じになっていたことには驚かされました。しかし、1960年頃までの自動車には随所に注油口がついていたりして、昨今のように半ばスニーカー感覚で使えるような代物ではなかったようです。

同館の新館には、昭和期における日常生活を取り巻く「もの」の変遷が展示されており、これまた興味深いものです。思えばこの数十年で我々の生活環境は急激に変化しました。携帯電話の普及などは言うまでもありませんが、身の回りのもの全てが、大切な道具から誰もが使える消費財へと変化したのではないでしょうか。かつて電化製品などは仕組みを理解せずには使えませんでしたし、そうでなくともしょっちゅうご機嫌を損ね、その都度父親が工具を取り出して調整していたように記憶しています。その意味で中学校の技術家庭は生活に密着した勉強でした。工作が好きな少年ならその知識を応用してラジオなどを作り、周囲に自慢することだってできました。当然、買うよりも作るほうが安上がりでした。

今はどうでしょうか。自動車の板金修理などは別にして、家庭電化製品などは往々にして、故障したら修理するよりも型落ち品を買った方が安いです。エンドユーザーに徹すれば快適ですが、市販の製品を自分で直したり替るものを作ったりしようとしたら、まず膨大な情報が必要になります。しかもそれらの情報もすぐに古くなります。服なども既製品を買った方が遥かに安く、作るのはもはや趣味の範疇に入りつつあるとのことです。小さな悦びを積み重ねつつ自分の才能や技能を伸ばしなさいと子供達に期待するのは、今の時代、少々難しい課題なのかもしれません。

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