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Chapter01

開学30周年記念事業をまとめて/学長 西永 頌(にしなが たたう)
西永学長本学は、平成18年10月1日に開学30周年を迎えました。これを機会に記念行事を計画したのは平成17年のことです。事業を行うためには資金が必要ですので、募金活動をすることにしました。しかし、お金を集めることはそんなに簡単なことではありません。多くの方のご協力が必要になります。とりわけ、同窓会は卒業生が一万人近くなりますので協力が得られれば大きな力となると考え、まず同窓会に協力を呼びかけました。豊橋市内にある学長宿舎に同窓会長はじめ役員の方々に集まっていただき、記念事業ならびに募金に対する協力をお願いしたことを思い出します。
  
本学は、平成16年4月から国立大学法人になったことで、多くのことが変わりました。それまでは「教授会の自治」と呼ばれるように、大学の最終決定機関は教授会でしたが、法人化後は学長・理事からなる役員会が最終決定機関になり、大学トップのリーダーシップにより大学の斬新的な運営が可能になりました。役員会のもとには、経営のことを議論する経営協議会と、教育研究について議論する教育研究評議会が置かれ、役割分担が図られることになりました。このシステムの中で、役員会にも経営協議会にも学外の方に入っていただき、社会のための大学として外部の意見を取り入れる仕組になったのです。この経営協議会の委員へ卒業生の代表として同窓会長に加わっていただくことにしました。今後の大学の発展に同窓会が大きく関与してほしいとの願いからです。
  
募金に協力いただくため、豊橋市はじめ周辺地域の商工会議所や商工会にお願いするとともに、東海地方の産業界には本学理事神野信郎氏(サーラグループ代表)が、いろいろな場で産業界のトップと接触され、本学への支援をお願いいただきました。特にトヨタ自動車株式会社の渡辺捷昭副社長(現社長)をご紹介いただき、ご同道くださり、直接面会ができたことには大変感謝しております。また卒業生が多く就職している近隣の企業を中心に、私と小林副学長が分担して訪問し、本学の状況の説明と記念事業へのご協力をお願いしました。
  学生交流会館完成記念式典テープカット
大学の体制としては開学30周年記念事業委員会を中心に実行委員会と分野別委員会を立ち上げ、大学執行部直属の組織として記念事業推進室を作りました。室長には加藤史郎副学長に就任いただき、事業全体を掌握いただきました。実行委員会の中には募金部会、事業部会、年史編集部会、記念式部会を設け、それぞれ仕事を分担しました。このうち、年史編集部会(部会長加藤史郎副学長)と記念式部会(部会長新田恒雄学長補佐)は、平成18年10月1日の記念日に間に合わせるため、早くから準備をお願いしました。
 
記念式典は、平成18年10月6日ホテルアソシア豊橋で挙行し、文部科学省からは高等教育局長清水潔氏に御列席いただき、祝辞を賜りました。また式典に先立ち、元東京大学総長で現産業技術総合研究所理事長の吉川弘之先生による「21世紀の科学技術と今後の大学像」と題する記念講演会を開催いたしました。
 
記念事業の目玉をいくつかご紹介します。まず学生交流会館です。会館といっても独立した建物ではなく、福利厚生棟の一階部分、柱のみでピロティとなっていたところに増築し、学生の交流の場としたものです。玄関も新たに設け、そこには会館のプレートをつける予定です。同時に二階の和室やその周辺の部屋も改装しました。
 
次に、同窓会のご寄附によりグランドに照明灯3基を設置しました。本学は工学系で、冬など授業や演習・実験等が終わると外は真っ暗になっており、練習ができないという悩みがありました。本来は、6基あるとグランド全体を明るくできるのですが、第一歩として練習ができる半分の規模で設置を進めることにしました。平成20年の1月末に点灯式を行い、思いのほか明るいことに関係者一同、大変喜びました。同窓会のご寄附に対し、心から感謝いたします。 
 
次の目玉は、2つの寄附講座です。第一は、豊川市に本社のある精密機械加工ツールの分野では世界屈指の、株式会社オーエスジーによる寄附講座「オーエスジーナノマイクロ加工学講座」です。第二は、豊橋信用金庫はじめ近隣の岡崎、蒲郡、豊川、浜松各信用金庫の御協力による寄附講座「しんきん食農技術科学講座」です。前者は生産システム工学系に、後者は平成18年10月に新設した先端農業・バイオリサーチセンターに所属します。特に、後者は本学に今までなかった農学と工学の境界領域を開拓する講座として大いに期待できます。
 陸上競技場の照明灯完成式出席者による記念撮影
さらに、本学との共同研究推進のため、サーラグループにより二つの連携研究室を設置していただきました。一つは電気・電子工学系に置く「エネルギー有効利用に関する連携研究室」で、もう一つは建設工学系に置く「住宅環境に関する連携研究室」です。 
 
そのほか、ミニ事業とも呼べる小さな事業を沢山行いました。主に、学生のクラブ活動に対する支援ですが、その行事に開学30周年記念事業の冠をつけることを条件に10万円を補助するものです。たとえば本学の吹奏楽団は活発な活動を続けていますがその定期演奏会を支援しました。また、自動車部の『学生F1』出場に援助しました。さらに豊田高専西澤教授の提案で英語多読用図書を豊橋市中央図書館に配架し、より多くの市民が利用できるようにしました。その他、多くのミニ事業へサポートを行っています。
 
平成21年3月まで事業期間はもう一年ありますが、まだできていないものに本学の校旗と校歌があります。これについては次期執行部にお願いしたいと考えています。いずれにしましても、開学30年という節目のときに多くの方のご協力をいただき、この事業を半ば終えることができましことは大きな喜びです。いろいろ大変なこともありましたが、今はやってよかったというのが実感です。
 
最後に、募金にご協力いただいた本学教職員、同窓会、保護者、地域及び産業界の皆様方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。 
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Chapter02

地域と技科大 -東三河地域の活力-/名誉教授 紺野 昭(こんの あきら)

紺野昭名誉教授技科大のある東三河地域は、山や川や海と自然に恵まれ、四季を通した美味素材があり、そして穏やかな人達と、とても暮し易い地域と私は思っている。

はじめて当地に赴任してきた同僚、後輩やその家族の多くが、ここは住み易いと言っているのをよく聞いてきました。

今度の技科大創立30周年記念の行事の中で、技科大が当地に設立されるまでに、地域の青年会議所のメンバーが、一致して智恵をしぼり、驚くべきエネルギーをもった行動力によって、わが国はじめての技術系大学院大学である技科大を、豊橋の地に呼びこんだという事実を知られた方は少なくないと思います。この地域のどこにそのような活気と智恵にあふれた人々がいるのかと思われた方もおられることと思います。


技科大創立30年ともなると、この土地や人達のことを日常的にしか考えなくなってしまうもので、30周年記念行事での、かつての青年会議所の会員達の活動を知ったことは、大変意義があったと思っています。
この東三河地域は、大戦後の60余年をとってみても、日本中をアッといわせることをやってきた、智恵とエネルギーと実行力をもった地域であるからです。

わが国で節目節目に示された、当地域がわが国をリードしてきた事例を示してみましょう。
豊橋市は、終戦の前に空爆によって、豊橋駅を含む現在の都心部が、焼野原になってしまったが、終戦とともに、いち早く戦災復興に取り組んで、現在の街路網を計画決定して、事業をすすめました。その事業をすすめるに当たって、豊橋では日本ではじめてという手法を採用しています。

その一つは、焼失した豊橋駅の再建が、当時の国鉄にとっては、全国の多くの駅が戦災にあっていることから、全く見通しのたたないことでありました。そこで、豊橋の人達は、我々の手で駅舎を建設するから、駅としてのスペースの他に、食堂やみやげ物などの店を作ることを認めてくれという提案を国と国鉄に出したのです。

これが受入れられて、木造平屋建で、駅舎と数店舗の入った豊橋駅が完成し、この方式をすぐ盛岡でも採用しています。このような駅舎を民衆駅といい、全国に拡がっていきました。これが発展して、主な駅でみられる駅ビルとなり、ちなみに現在の豊橋駅は3代目の駅舎です。

また、この戦災復興の時に、豊橋でしか出来なかった都市計画事業がありました。それは、現在の駅前大通りの整備であり、当時は駅前広場の計画が遅れていた上に、現在の名豊ビルの周辺には、いわゆる戦後のヤミ市が、焼跡を占拠しており、再建上の問題となっていました。そして考え出された方式が、今日的には可否があるところではあるが、牟呂用水組合との合意のもとに、現在の水上ビル群を作って、ヤミ市の商人を収容するとともに、ヤミ市跡の地下をバスターミナルとし、その屋根を都市公園とする一連の都市計画事業を行っています。当時このような都市計画事業を行ったのは、豊橋しかなかったのであります。
 

次は、それから約10年経って、わが国は所得倍増計画を受けた全国総合開発計画の作成の時期となり、この計画(当時全総といった)は、拠点開発という方式をとり、その拠点を新産業都市として、法のもとで開発投資を集中するということが示されていました。これを受けた各道県は、活発な活動、特に国への陳情合戦を行ない、新産騒動といわれる時期を迎えます。

この時期に先だって、東三河地域では、地元の産業界が主導して自治体を加えて、東三河産業開発連合会という組織を作り、官民一体となって、東三河のマスタープラン作りをスタートさせ、そのプランの叩き台を作るために、東三河工業開発計画中央専門委員会を発足させ、地元立案のマスタープランを広く中央官庁や学識者に配布しました。このような官民一体となって、自らの計画を作り、国に提案するというやり方は、東三河地域のみであり、当時各県から東三河方式といわれたのであります。この時のマスタープランを計画図としたものが図―1です。
東三河土地利用基本計画図この結果、東三河地域は、新産業都市と同時に指定された工特地域に指定されました。

このマスタープランでは、埋立地を工業地化することを計画されていたが、工業地化の実現化がすすまないままに、次の全国計画(新全総といっている)に基づいて、港湾計画では、埋立地の工業化を流通港湾として埋立計画をすすめることに計画変更されました。

この港湾建設に当たって、民間資金を導入したいとの国の指針に、いち早く反応したのが東三河地域の人達であり、その提案は、総合開発機構を官民で設立し(当時から第三セクターといわれた)、木材と住宅産業を育てるため、岸壁、貯木場と住宅産業用地を造成するとともに、産業従業員などの住宅用地と産業用地の確保を行うことを目的としました。このような第三セクターによる港湾産業を行ったのは、豊橋と福岡がはじめての組織であったのです。

なお、この総合開発機構が、土地取得を目的に、現在の国道23号バイパスの周辺の調査を行っていた中に、技科大用地も含まれており、このことが豊橋JCのメンバーを力づけたともいえます。

流通港湾として、貯木場と岸壁と広大な埋立地に、スズキ自動車が輸出入基地として利用を開始し、次いで田原町地先の埋立地にトヨタが、木材港岸壁を利用してアウディ・フォルクスワーゲンが輸入基地を作り、ベンツなどが、相次いで輸入基地をつくり、三河港は、日本屈指の自動車流通港となり、特に外国からの自動車の輸入取扱は日本一を維持するに至っています。

話をもとに戻して、技科大が東三河に決定して、教官、教員や学生が、この地に移り住んでくるに従って、この東三河の人達からいろいろの支援をしていただきました。

その中で、今日まで続いている二つの例を示しましょう。
その一つは、技科大生を短期海外に派遣して、海外での見聞を広めさせようという援助であり、1期生各系1名が、希望する国への旅行資金援助を受けました。この援助は今日まで続けられています。
その二は、先に述べた東三河産業開発連合会が、その後改組されて東三河開発懇話会(現在は東三河懇話会)となり、現在の名豊ビルの6Fに事務局(現在)と会員用の談話室があり、技科大教員は会員扱いで出入りの出来ることになりました。ここには夕方になると、豊橋市長をはじめ東三河の政財界の主要な人達が現れて、お茶をのみながら雑談していました。技科大の教員が加わるようになって、集っている20〜30人程の地元メンバーに、技科大でどんな研究をしているかを技科大側から話をし、その後地元の人達と討論したり、雑談をしたりする会を、不定期に何回かもつようになりました。このことが会員に伝わり、正式な集まりとするよう要望されて、毎月の例会とすることとし、会合の内容は少しずつ変化してきているものの、東三河産学官交流サロンとして、現在も続けられています。(この会に加えて早朝交流会(現在は午さん交流会)が行われている)

また、故佐々木先生が副学長になられてすぐ、副学長以下数人に教授と、地元側から神野信郎氏以下数名の財界人と懇談する機会がありました。この席で、大学として研究費の確保が大変との話がでて、地元で少しでも役に立つ資金を集めましょうということで、その後、(財)東海産業技術振興財団が発足、若手研究者を勇気づけて今日に至っています。

一方その席で、地元の人達から、技科大にはいろいろの専門分野の研究者がおられる新しい生活の都づくりわけですから、21世紀の社会や地域がどうなっているかを話合う場を設けてもらえませんか?そしてその時に向って東三河のあるべき姿を提案してもらいたいということでありました。

その為に、地元の市町村やそこの有識者など数十名に技科大各系から数名ずつの教官、愛大からも数名の教官を加えて、委員会を作り、小グループで議論したものを全体で議論するという方式をくり返して作成したのが、表紙のみで示した図―2が、その報告書です。

この報告書は「生活の都づくり 東三河2015」と呼ばれて、今日でも折にふれて議論されています。

これらのような、産官学の共同事業が実施できたのも、東三河地域であり、技科大だったからと思います。

これまで、いくつかの東三河地域の特徴を示す事例を簡単に示してきましたが、いかにこの地域には潜在的な能力とエネルギーをもった地域であることをわかっていただけたのではないかと思います。

技科大開学30年、そして当時のJCメンバーの活動を振り返るとともに、このエネルギーを育ててきた東三河地域を考える機会ともなれば、幸いであり、地域を湧きたたせて、技科大を後援するような研究や事業が生まれてくることを期待しています。

(現:社団法人 東三河地域研究センター顧問)

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Chapter03

学生交流会館完成/地域協働まちづくりリサーチセンター 建設工学系 准教授 松島史朗(まつしま しろう)

本学学生のキャンパスライフの向上を目指して建設が進んでいた学生交流会館が昨年11月完成し、年末より供用が始まりました。松島史朗准教授この学生交流会館は、豊橋技術科学大学の開学30周年記念事業の一環として実現されたものです。これまで本学では、どちらかというと研究環境の整備に重点が置かれてきましたが、今回は、学生の交流スペースを整備することで、学生の生活面の支援を充実させることを目標にして計画されました。

 
この施設のデザインを、建設工学系松島研究室が担当しましたので、その概要をご紹介します。
私の研究室では、「実際につくって考えよう」を研究教育のモットーに、学生を主体として実際に建築の設計やまちづくりを実施していますが、この計画でも外観イメージCG大学院の学生が中心になって、昼夜を問わず設計に取り組んでくれました。具体的には、既設福利厚生棟の食堂の下階にあった空きスペースへ増築を行う形で交流スペースを設け、それに合わせて隣接する1階の売店前および2階の談話室や和室等の既存部分の改修を行いました。1 階には売店前のスペースを改修したラウンジ&ギャラリーと、本施設の中心的なスペースであるコモンズTと呼ばれる空間があり、そこは学生が友人と語たり学び、また飲食しながらリラックスできる等自由な使い方ができる場所となっています。外壁はガラス張りとし、周囲の緑を楽しみながら過ごすことができます。1階ラウンジギャラリー南側には外部にウッドデッキのテラスがあり、気候の良いときは内と外が一体となった利用が可能です。2階は、コモンズU(多目的利用室)や和室、就職支援室などがあり、コモンズUには同じく外部テラスがあります。以前より大きく明るくなった開口部を通して、中での活動やパーティなどの光景が、建物の外側からも良く見えるよう計画しました。1階のテクノロジーボックスと呼ばれる外壁からとび出したガラスの箱や、これまで技科大ではあまり使われなかった躍動的な色使いなど、斬新なデザインによって学生の発想を刺激するとともに、本学の国際色豊かな学生達が快適な環境で幅広い交流が行えるように計画しました。コモンズ2また、わずかな面積ですが壁面を緑化して環境技術に触れたり、天井を張らずに天井裏を見せるデザインとすることで、通常は見えなくなってしまう内部構造が見えるようにしたりして、学生にとって生きた教育材料となることも期待しています。

  

交流会館は多くの方々のご支援により実現したものです。西永学長以下執行部のリーダーシップのもと、企画・設計・建設全ての過程で的確にマネジメントを行われた施設課の方々、特に企画段階で意見を戦わした学生生活委員会の面々、テクノロジーボックス管理運用面を担う学生課のスタッフ等々、皆様の熱い思いに引っ張られて完成に導いていただきました。30年前本学の実現にご尽力いただいた豊橋青年会議所OBの方々には、当時思い描かれた技科大の姿を表現した銘板を寄贈いただきましたが、そのデザインの打ち合わせの過程で、誘致に奔走された当時のことをまるで昨日のことのように語られる姿を拝見するに、こんなに本学を愛してくださる人々がおられることを幸せに思いました。そして、寄付をいただいた方々にはこの紙面をお借りしてお礼申し上げます。 

 外観テクノロジーボックス
この学生交流会館はこれで完成ではありません。
ましてや、使い方を強制するものでもありません。学生が自ら使いながらつくり上げていく、白いキャンバスのようなものです。これからこの施設がどのように進化してゆくのか、皆様とともに見守っていきたいと思います。

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Chapter04

豊橋技科大物語(9)/平成18年10月12日付 東日新聞

76(昭和51)年が明けた。田中角栄・前首相のロッキード社献金問題が表面化し始め、国会は荒れた。変則的な国会運営が続いたが、1月中旬、昭和51年度政府予算案に豊橋、長岡2校の「昭和51年10月開学、昭和53年4月生受け入れ」事業費が計上されたことを受け、豊橋市はそれまでの「技術科学大学院創設対策課」を「技術科学大学対策課」に改称し、市議会も3月議会で「国立技術科学大学対策特別委員会」に改めた。

対策課の中村剛課長、藤城芳之・推進係長(昇格)、佐野阜石・推進係主査(同)の体制は変わらなかった。天伯の用地買収も大詰めを迎えていた。

大地主である総合用地の交渉窓口は小久保三夫氏(後に市議、県議)だった。市側は中村対策課長が担当したが、大筋では青木茂市長と親会社である総合開発機構社長で参議院議員の藤川一秋氏とのトップ会談で決めた。

文部省の現地視察が相次いだ。そんな中で豊田高専の榊米一郎校長が国立工業高等専門学校協会(国専協)の役員らとともに現地視察を行い、青木市長らと懇談した。名大工学部長から74(昭和49)年4月に豊田高専の校長となった榊氏は、有力な学長候補とみられていた。

4月30日、天伯の地で大学用地造成工事の起工式が行われていた。用地買収が完全には終わっておらず、見切り発車だった。「一軒移転先が決まらず、敷地内に残った状態でした」(藤城氏)。

技術科学大学院−技術科学大学の創設は、東京工業大学に準備室を置いて進められてきた。同大の川上正光学長が準備室長となり、中心になって進めてきた。設置決定後、豊橋にも視察に訪れたことがあったが、6月にも再び訪れ、造成工事の始まった現地を視察した。

このとき「川上氏が初代学長になりそうだ」といった憶測が流れた。青木市長とも懇談した。神野信郎氏が同席した。川上学長は学者肌の人だった。「青木市長は、豊橋は緑のまち。できる限り応援するので、緑いっぱいの大学にしてほしいと言って、熱心に大学に寄せる思いを伝えようとしました。ところが、川上学長はあまり関心を示されませんでしたね」。

10月1日、国立豊橋技術科学大学が国立長岡技術科学大学とともに開学した。大学は用地造成中であり、豊橋市役所分庁舎(現職員会館)に仮事務所を構え、事務官が「豊橋技術科学大学」の看板を掲げた。初代学長には榊氏が就任し、川上氏は長岡技科大の初代学長となった。

10月7日に榊学長が発登庁し、仮事務所で職務についた。9日には、豊橋グランドホテルで、豊橋市主催の「開学記念の集い」が開かれた。永井道雄文部大臣が出席した。東工大教授として自らも関係した理化学研究所について触れ、「豊橋技科大は湯川、朝永両ノーベル賞学者はじめ、多くの科学者や技術者を育てた理研の流れをくむものであり、理学と工学を分けて考えず、実験、実習を通じて理論を高めていくその輝かしい伝統が今、豊橋で花を咲かせ、実を結ぼうとしている。開学はその第一歩だ」とあいさつした。

吉田藩主ゆかりの大河内正敏氏が理研の所長を務めるなど、永井文相と豊橋と技科大は「ご縁」があり、永井文相自身も豊橋に親しみを持っていた。

その年11月末に大学用地の造成工事が完了した。それまでの無償提供の慣例を踏襲せず、青木市長の主張通り、国が分割払いで買い上げることになった。先行取得した豊橋市都市開発公社から買い取りが始まった。その代わり、豊橋市と愛知県が大学周辺の道路、排水路、上下水道、電気など関連付帯工事一切を行って、支援した。

77(昭和52)年3月末、文部省は講義棟や研究棟など学校施設の建設に取りかかるため、整備された高師原・天伯の地で合同起工式を挙げた。5ヶ月後の8月、榊学長の名を受けて大学の骨組みを行う基本問題検討委員会の実働部隊の一員として、名大工学部から若い助教授がやってきた。今の西永頌学長である。
(山崎祐一)

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Chapter05

豊橋技科大物語 補 上 /平成18年10月13日付 東日新聞

話は高専から始まった。昭和30年代中ごろのことだ。愛知県下第二の都市である豊橋市と新興都市・豊田市が綱引きを行い、時の桑原幹根知事が「高専は豊田、(次の機会に)大学は豊橋」と言って仲裁し、話を収めた。豊橋が譲った。
64(昭和39)年、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれた。豊橋JC理事長に神野信郎氏(中部ガス会長)が就いた。「明日の豊橋をつくる」ことをテーマに掲げて活動し、市民アンケート調査に基づき、産業都市を建設していくために工科系大学の必要性を訴えた。

神野氏は翌年から日本JC副会頭となり、東京を舞台に大学誘致運動の輪を広げた。佐藤元彦氏(豊橋商工会議所会頭)が豊橋JCに就いた68(昭和43)年、神野氏は日本JC会頭となり、文教3羽ガラスといわれた河野洋平氏らと交友関係を広げた。

そのころ、高専ができて5年を迎え、卒業生の進学希望が相次ぎ、国専協などで問題化した。文部省は研究会議を発足させて対応したが、大学紛争の逆風が吹き荒れる中、大学新設論は進展しなかった。

神野氏はそうした動きについて豊橋に伝え、機運を高めた。小坂英一氏(永田鉄工)らが機敏に反応し、翌69年に豊橋JC理事長になると、再び市民アンケートを行って世論を高め、東工大教授、永井道雄氏を豊橋に呼んで講演会を開いた。

そうした一連の動きをまとめ、翌70(昭和45)年に大塚公歳理事長、鈴木国雄・社会開発委員長が新構想大学設立への提言書「東三河の新しい頭脳」を観光し、文部省や自民党文教族に陳情した。

神野氏は日本JC会頭時代、全国大会を地元の名古屋に誘致することに成功した。70年10月に開かれ、大量2000部印刷した提言書を会場で売り、PRした。「最初1冊1000円で売ったのですが、最後は3冊1000円になっちゃいました」と当時、社会開発委員長だった関口三千彦氏(日本繭繊維工業代表)。

この1冊が文部省から豊田高専に出向していたある審議官の目にとまり、国専協校長会役員に渡った。翌71年には会長の和栗・久留米高専校長ら役員が豊橋市を訪れ候補地を視察するとともにJCや市関係者と懇談した。

国専協は新構想大学推進特別委員会を設置して検討を重ねた。中でも、和栗校長は工業技術大学(院)構想案をまとめた人で、熱心な推進論者だった。特に豊橋JC関係者の新構想大学について意見を交換した。この時の視察の成果などを踏まえ、翌72年3月に要望書「技術科学大学院(仮称)の創立について」をまとめ、文部省に提出した。初めて「技術科学大学院」の名称(仮称)が使われ、「高専に接続する大学院レベル新構想大学(高等教育機関)が必要だ」と提言した。

関口氏は「視察に訪れた際、我々の提言書にびっしりと赤線が引かれてあり、熱心さに驚きました。あまりにほめられたので、みんな自信を持ってしまいましたよ。あとで要望書の写しを送ってくれましたが、われわれの提言書の文言が至るところに使われていました」と振り返る。

こうした動きを受け、文部省はその年8月、「技術科学大学院(仮称」に関する調査研究会議」を設置し、本格的な検討に入った。その結果、設置すべきだという結論を得て、翌73(昭和48)年度政府予算に「調査費」が計上された。豊橋では、予算通過に合わせて4月、高専関係者を招いて市、商工会議所、JC関係者らで「新大学設立研究会」を発足させ、全市一丸となった誘致運動を開始した。

「われわれは高専の大学院大学を考えていたんじゃなくて、一般の工科系大学を思い描いていました。しかし、国専協の視察を受け、親しく懇談しているうちに、『山紫水明の豊橋は適地だ』などと繰り返し言われたことから親近感を持つようになり、技術科学大学院計画がはっきりした段階で、その誘致に専心するようになりました。その後、和栗校長は豊橋の良さを強調し過ぎたあまり、校長会長を辞めさせられたなんて話が伝えられましたよ」と関口氏。

豊橋JCの提言書が国専協を通して文部省を動かした。豊橋の大学(技術科学大学院)誘致はすでに、大きなインパクトを与えていた。
(山崎祐一)

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Chapter06

豊橋技科大物語 補 下 /平成18年10月14日付 東日新聞

神野信郎氏(中部ガス会長)が68(昭和43)年に日本JCの会頭となり、新たな展開が始まった。豊橋JCの理事長はこの年、佐藤元彦(豊橋商工会議所会頭)▽69年小坂英一(永田鉄工)▽70年大塚公歳(武蔵精密)▽71年平野照二(豊橋飼料)▽72年青木徳生(東愛知日産)▽73年福井恒雄(マルアイ)▽74年磯村浩隆(真田工業)▽75年鈴木国雄(光陽)▽76年(昭和51)年川部庭資(川部食料品)の各氏が就き、大学誘致に様々な形で関係した。誘致運動の一端を担った。しかし、ピークは政府予算に「調査費」が計上された73(昭和48)年(度)だった。

福井理事長の下、実動部隊長の社会開発委員長に磯村定司氏(イソムラ保険)がなった。以前から誘致活動に加わっており、何ら違和感はなかった。提言書(70年)を作った時の社会開発委員長、鈴木国雄氏が担当副理事長だったことから、精通している磯村氏を推薦した。

磯村氏は71年の社会開発委員長、関口三千彦氏(日本繭繊維)とともに豊田高専を訪ねるなど、勉強会を続け、情報収集に努めた。特に青木茂助役や中村剛秘書室長補佐から連絡を取り合った。出向くと「JCにがんばってもらわないと困る」と言ってハッパを掛けられた。「虎の絵のついたじゅうたんの部屋で、いつもお茶とケーキを出してくれましたよ」。

検討を続けてきた文部省が9月初め、技術科学大学院、放送大学、教員養成専門大学の3つの新構想大学案を発表し、新聞に載った。「76(昭和51)年開学を目指す」という具体的な方針が示された。

豊橋JCは9月例会で対応し、より効果的な陳情にするため、青木助役と話し合って「期成同盟会」づくりを進めた。副理事長の鈴木、磯村、関口の3氏が中心になって動いた。

12月初め、愛知県及び豊橋市、商工会議所、JCの4団体が参加・呼びかけ人になって、豊橋商工会議所で会合が持たれた。東三河各市町村長、議長、商工会議所・商工会、6JC関係者らが集まり、「技術科学大学院誘致推進協議会」を旗揚げした。会長に牧野新二会頭が就いた。

磯村氏は「青木助役と牧野会頭が話し合って進めたことでしょう。東海日日新聞社の宮脇良一社長もでんと真ん中に座っていましたよ」
構想発表と同時に、全国各都市が一斉に名乗りを上げたため、先行していた豊橋市だったが、脅威に感じ、地域を上げた一大陳情団を編成して、勝負に打って出た。
 
 「朝6時の新幹線に乗って上京し、陳情に明け暮れました」と磯村氏。電車賃など経費はすべてポケットマネーだった。

途中、田中角栄首相の命で「長岡と豊橋に決まった」といった朗報も流れたが、直後に「長岡だけだ」といった情報も乱れ飛んだ。ギリギリの予算折衝が続いた年の瀬、河合市長の命を受けた青木助役が神野副会頭とともに(海部俊樹)文部次官室で、(復活)折衝に成功した。青木助役の大芝居が功を奏した。

「豊橋設置」が決まり74(昭和49)年は明けると、建設に向けて具体的な動きが始まった。豊橋市で建設地探しが本格化したころ、名古屋大学で榊米一郎工学部長に声がかかった。

「当時、私はね、電子顕微鏡の研究でヨーロッパで活躍していたんです。ある日、その話がありました。先輩や同僚からも勧められ、思い切ってお引き受けしたんです」

その年4月に豊田高専校長に赴任した。「校長をやりながら、大学の設置準備を進めたんです」。「元気がよかったからね。豊橋のまちから声を掛けていただきました。当時の市長さんたちが運動してくれたようですよ」。

76年(昭和51)年10月に開学し、榊氏が豊橋技科大の初代学長に就いた。78(昭和53)年の開学式で、誘致に大きな役割を果たした豊橋JCを代表して松井章悟理事長が記念植樹した。

自民党文教族(一部)は田中・ロッキード事件を契機に新自由クラブを立ち上げた。誘致運動で懇意になった小坂英一氏は上京して行動をともにするようになり、一時政界に身を投じた。

この誘致運動に尽力した上村千一郎代議士の長男、上村健介氏(ジュトク社長)は次のように締めくくる。

「まだ第一期だ。技科大は造るのが目的ではない。産業界が一緒になって、大学の周辺に企業の研究棟を建て、産学協同の一大ゾーンを創り(つく)上げる。全国に向かって発信していく。親父が口癖にしていましたよ」。

豊橋技科大の誘致は、豊橋市にとって戦後最大のビッグプロジェクトであり、今なお成長を続けている。開学30周年も1つの通過点に過ぎない。
=おわり=
(山崎祐一)

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