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対談 「地域が支える豊橋技術科学大学」

神野 信郎 豊橋技術科学大学特別顧問(中部瓦斯株式会社相談役)

× 大西 隆 豊橋技術科学大学長

大西 隆 学長 神野 信郎 特別顧問

開学から現在までの豊橋技術科学大学の活動は地元の期待に応えるものであったのか、また、今後の大学の在り方に対する期待は何か、地元産業界の視点からご意見を伺おうと、本学創設時よりご尽力いただいている神野信郎特別顧問と対談を行った。

豊橋技術科学大学開学までの道のり

大西隆学長(以下、大西学長) 本日は、豊橋技術科学大学創設から現在まで、ご尽力いただいている神野信郎特別顧問にお越しいただきました。誘致活動から現在までの本学について、また、今後の大学の在り方に対する期待あるいはアドバイスを頂戴できればと思います。
来年、本学は開学40周年を迎えます。昭和51年10月に開学をいたしました。
その以前から、豊橋では、いわゆる技術系大学を豊橋に誘致するという運動があり、ある時期から「技術科学大学」という具体的なかたちを取って展開されてきたと伺っています。最初に、豊橋における技術系大学の誘致活動についてお伺いできればと思います。

神野信郎特別顧問(以下、神野特別顧問) 戦時中の豊橋市は軍都、蚕都でありましたが、戦後、港湾・臨海工業都市へと脱皮を図ろうとしていました。その過程の中で、「地域づくりは人づくり」という考えのもと、終戦直後の昭和21年、中部地区初の法文系大学である愛知大学の誘致に成功しました。次は、技術系大学をと、計画を練っていたのでした。

大西学長 愛知大学誘致当時、繊維産業の他、一般の工業はどのような様子でしたか。

神野特別顧問 当時はまだ何もありませんでした。トピー工業株式会社、三菱レイヨン株式会社、そして、トヨタ自動車株式会社の進出により臨海部が一挙に工業地帯になりました。これは非常に大きな変革であったと思っています。
今から51年前の昭和39年、私が豊橋青年会議所理事長であった当時、「これからの豊橋に何が必要か」を問う市民アンケートを行ったところ、技術系大学の設立に対する要望が大きなものであることが明確になりました。
私は、その後、昭和40年に日本青年会議所の副会頭、監事を経て、昭和43年に日本青年会議所の会頭に就任しましたが、その間の4~5年で、豊橋青年会議所のみなさまが力を尽くし、豊橋に立派な大学をつくろうということで、昭和45年に「豊橋を新しい頭脳産業都市の中核とする八つの提言」が発表されました。
初代の学長となる榊米一郎先生にお目にかかったのは、この提言を発表した大会でありました。そこで、榊先生と知り合いになり、非常に親しくなりました。榊先生には、豊橋に大学をつくるという私たちの思いに共感いただき、大変大きな力を発揮していただきました。

大西隆学長

大西学長 榊先生は、昭和49年から豊田工業高等専門学校の校長をしていらっしゃいましたね。高等専門学校生の進学先が必要だという思いと、豊橋に技術系大学を創設したいという思いが一致したということですね。

神野特別顧問 初めは豊橋青年会議所が中心となっていた誘致活動でしたが、その後豊橋商工会議所が中心となり、昭和48年に豊橋に技術系大学を誘致する推進母体となる「技術科学大学院誘致推進協議会」が発足しました。
当時は大学紛争の時代であり、大学誘致反対の意見も強くありました。その中で、豊橋青年会議所メンバーは研究や市民集会を繰り返し、また、後に文部大臣となられる永井道雄先生、自民党文教関係の若い議員の方々のご協力を得て、大学の設置が実現することとなりました。
開学直後の「開学記念の集い」において、文部大臣として永井先生が「豊橋技科大は湯川、朝永両ノーベル賞学者はじめ、多くの科学者や技術者を育てた理研の流れをくむものであり、理学と工学を分けて考えず、実験、実習を通じて理論を高めていくその輝かしい伝統が今、豊橋で花を咲かせ、実を結ぼうとしている。開学はその第一歩だ。」という話をされたことを覚えています。

地域が支える豊橋技術科学大学

大西学長 昭和57年から参与として18年間、平成12年から運営諮問会議委員として4年間、平成16年4月から理事(地域・産学官連携担当)として4年間、平成20年4月から特別顧問として現在に至るまで、約30年の長きにわたり本学の大学運営に参画し、その発展に大きく貢献していただいています。

神野特別顧問 私は地域出身の渉外担当理事ということで就任しました。

大西学長 当時は、豊橋商工会議所の会頭をされ、豊橋経済界の中心でいらっしゃいましたが、そのようなお立場から見て、本学が豊橋に立地し、活動を本格化していく過程は、誘致のときに思い描かれた大学像と比べていかがでしたでしょうか。

神野信郎特別顧問

神野特別顧問 豊橋技科大の成長や在り方はまさに期待どおりでした。私が会頭であった間に、豊橋技科大を応援するための支援態勢をつくるため、大学院の学生が、系ごとに1人ずつ、外国へ勉強に行く制度を作りました。
同時に、大学を直接応援するだけではなく、それを全面的にバックアップするために、公益社団法人東三河地域研究センターと一般財団法人東海産業技術振興財団という財団をつくり、基金を集めました。
また、研究所を集めるため、株式会社サイエンス・クリエイトを設立しました。当初は私が社長に就任し、経済界が中心になってつくったようなかたちになっていましたが、実質的には市が中心になってつくりました。
豊橋技科大の先生方は様々な企業に駐留し、その会社の技術開発に大きく貢献いただきました。

グローバル人材育成

大西学長 次に、大学の将来のことを伺います。大学と地域がより連携し、特に産業面の発展を考えていくうえで、これからどのようなことが求められているとお考えですか。

神野特別顧問 今、まさにグローバルな世界になりつつあり、地球全体の次代を担う学生たちには、自分の考えに基づき、ものごとを判断し、次代を切り開いていくリーダーとしての資質が求められると思います。
グローバル教育により、求められているグローバル人材をいかにつくり上げていくかが大学の課題であると考えます。新しい技術や価値観をいち早く自身で吸収し、世界の流れを感じ、新しい時代に貢献できる技術を開拓する、さらに、新しい技術を作り上げていく学生が、これからは非常に大切です。

大西学長 本学はマレーシア・ペナン州に海外教育拠点(以下、ペナン校)を設置し、そこを拠点に学生の実務訓練を始めました。
また、株式会社サーラコーポレーション神野吾郎代表取締役社長をはじめとした商工会議所の代表の方々にもこの拠点をご視察いただき、そのような中では、「地元としても、こういう施設を利用してもいいのではないか。」という話もあがっているようです。

神野特別顧問 大西先生が今年発表された大西プラン、大学憲章では、高専教育・グローバル教育事業の実施、ペナン校を拠点とする海外実務訓練の実施、イノベーション思考人材育成事業の実施という大変大きな課題を掲げていますね。

大西学長 グローバル化は、大学にとって非常に大事です。留学生と日本人が一緒に暮らせる新しい宿舎をキャンパスの中に造ることも計画しています。
我々は、大学での生活しか見えませんが、留学生から、豊橋の中で様々なかたちで関わりを持っていただき、市民のみなさまとの交流などをしていると聞いています。そういう意味では、留学生は、豊橋の皆さんに非常に温かく包んでいただき、いい体験をさせていただいています。
今でも商工会議所の方々を中心に、市民のみなさまが大学あるいは大学の留学生を意識して、いろいろな所で手を差し伸べてくれるので、ありがたいと思っています。

神野特別顧問 このような場をご用意いただきありがとうございました。何かお役に立つことがあれば幸いです。

大西学長 本学誘致から現在まで、貴重なお話しをお伺いできましたこと、大変うれしく思っております。これからも、ご助言のほどよろしくお願いいたします。

神野 信郎 特別顧問
昭和34年 中部瓦斯株式会社入社
昭和50年 同社代表取締役社長
平成6年 同社代表取締役会長
平成18年 同社取締役会長
平成20年 サーラグループ名誉顧問(現在)
平成22年 中部瓦斯株式会社相談役(現在)
地元の有力企業である中部瓦斯株式会社代表取締役の職を勤めるとともに、豊橋青年会議所理事長、日本青年会議所会頭、中部経済連合会副会長、豊橋商工会議所会頭をはじめ公的な要職を多数歴任。昭和57年から豊橋技術科学大学参与として18年間、平成12年から運営諮問会議委員として4年間、平成16年4月から理事(地域・産学官連携担当)として4年間、平成20年4月から特別顧問。(現在)

[初版作成]2015.10.22 / [最終改訂]2015.10.22
総務課

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